していないし、やがて竿で水を掻《か》き廻すようなことになったら、ミッチリ油を取ってやろうと構えていたものを、海の中にはかなり暢気《のんき》な魚もあると見えて、たとえ一匹でも二匹でも、道庵の針にかかるようなものがあるから、その自慢を聞かせられても苦笑いしているばかりです。
 それでもこの一夕はかなり暢気な気分になって、また万八へ帰り、そこで道庵と別れて亀沢町の隠宅へ帰ったのは、夜もかなり更けていました。
 この人は旗本の隠居でも、そんなに大身ではありません。三百石ほどの家督を倅《せがれ》に譲って隠居の身だけれども、若い時分から家の経済が上手でありました。それ故に、今の身分になっても裕福であります。
 こんなに夜が更けて帰っても寝る前に、ちゃんとその日の算盤《そろばん》を置いてみなければ寝られない癖がありました。他《よそ》へ廻して貸付けさせた金の利廻りや、地面家作の取立てや、知行所の上り高というようなことを、倅に代っていちいち算当して、帳面を記しておかねば寝られない癖です。当時、大名にも旗本にも、内緒《ないしょう》の苦しいのが多く、うわべは大身に構えても、町人に借金があって首が廻らなかった
前へ 次へ
全200ページ中159ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング