の筒袖を着て、手に巻尺と分銅《ふんどう》のようなものを持って舳先《へさき》に立っていた人、それがどうも駒井甚三郎殿としか見えないのでござった。手前も一目見ただけで、言葉をかけたわけではなし、しかとしたことは申し上げられんが、今でもあれは駒井甚三郎に相違ないと思うていますな」
「なるほど、バッテーラに乗って、海を測量する、駒井のやりそうな仕事じゃ。ことによるとあの辺に隠れて、何か海軍の仕事をしているのではないか」
「なんにしても、あれが生きておれば結構、あれだけの人材を、今むざむざ葬るのはまことに惜しいものじゃ」
「いったい、駒井が甲州を罷《や》めたのは、神尾主膳との間が面白くないためか、それともほかに何か仔細があってか」
「駒井としては神尾なぞは眼中にあるまい、主膳と勢力争いでもしたように見られては、駒井がかわいそうじゃ」
 旗本の隠居や諸士の間に、駒井の噂がようやく問題になっていたけれど、道庵先生は能登守のことをあまりよく知りませんから、八十文の千住の安煙草入から煙草を出してふかしていました。
 この遠藤良助という旗本の隠居は投網が好きで、上手で、かつ自慢でありました。駒井の噂がいい
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