さいまし」ムク犬は和尚に、自分の為すべきことの命令を待っているかのようでありました。
 そのうちに何を認めたかこの犬は、岸に立って流れの或る処にじっと目を据《す》えました。
 堤防の普請にかかっていた慢心和尚をはじめ雲水や百姓たちが、
「あ、あの犬はどうした、この水の中へ泳ぎ出したわい」
 さすがに働いていた者共も一時《いっとき》手を休めて舌を捲いてながめると、滔々《とうとう》たる濁流の真中へ向って矢を射るように泳いで行く一頭の黒犬。申すまでもなくそれはムク犬であります。
 ムクがこの場合、なんでこんな冒険をやり出したのだか、それは誰にも合点《がてん》のゆかないことです。その濁流の中を泳いで行くめあては、今しも中流を流れ行く一軒の破家《あばらや》の屋根のあたりであるらしく見えます。
 草屋根の流れて行く方向へ斜めに、或る時は濁流の中にほとんど上半身を現わして、尾を振り立てて乗り切って行くのが見えました。或る時は全身が隠れて、首だけが水の上に見えました。また或る時は身体も首もことごとく水に溺れたかと思うと、またスックと大きな面《かお》を水面に擡《もた》げて、やはり全速力を以てその屋根を追
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