君は、なんの苦もなく二十両を用立ててくれました。
両女の分を合せて三十両を借受けた宇津木兵馬は、それを懐中して、いざとばかりに金助を促してこの家を立ち出で、飛ぶが如くに吉原へ駕籠を向けました。
「お松さん」
そのあとでお君は、何か心がかりがありそうにお松を呼び、
「そういうわけならば心配することはないようだけれど、なんだかわたしは気にかかってなりませぬ、御老女様には申し上げてはいけないと兵馬さんはおっしゃったそうですけれど、南条様や五十嵐様に御相談申し上げて、御様子を見に行っていただいたらどうでしょう」
お君から勧められて、お松もその気になりました。
九
鐘撞堂新道《かねつきどうしんみち》に巣を食う大道芸人の一群。その仲間が自ら称して道楽寺の本山という木賃宿《きちんやど》。そこに集まった面々は御免の勧化《かんげ》であり、縄衣裳《なわいしょう》の乞食芝居であり、阿房陀羅経《あほだらきょう》であり、仮声使《こわいろづか》いであり、どっこいどっこいであり、猫八であり、砂文字《すなもじ》であり、鎌倉節の飴売《あめう》りであり、一人相撲であり、籠抜けであり、デロレン左衛門であり、丹波の国から生捕りました荒熊であり、唐人飴《とうじんあめ》のホニホロであり、墓場の幽霊であり、淡島《あわしま》の大明神であり、そうしてまた宇治山田の米友であります。
歯力《はりき》や、鎌倉節や、籠抜けが、修行を済まして本山へ帰った夕方、阿房陀羅経や、仮声使いの面々は山を下って、市中へ布教に出かけようとする黄昏《たそがれ》。
「おいおい、芸州広島の大守、四十二万六千石、浅野様のお下屋敷へ、俺《おい》らのお伴《とも》をして行く者はねえかな」
籠抜けの伊八は、商売道具の長さが六尺、口が一尺余りの籠を、右の小腕にかかえ込んで、誰をあてともなくこう言い出すと、
「芸州広島の大守、四十二万六千石、有難え、そいつは俺《おい》らが行こう」
横になって寝ていた丹波の国から生捕りました荒熊が答えると、
「お前じゃあ駄目だ」
籠抜けの伊八は、言下に荒熊を忌避しました。
およそ大道芸人のうちでも、丹波の国から生捕りました荒熊の如き無芸で殺風景なものはない。自分の身体を墨で塗り、荒縄で鉢巻をし、細い竹の棒を手に持って、人の店頭《みせさき》に立ち、
「ヘエ、丹波の国から生捕りました荒熊でございッ、ひとつ、鳴いてお目にかける、ブルル、ブルル、ブルル」
これが、荒熊の持っている芸当の総てであります。ほかの芸人は、それぞれ相当の苦心と、思いつきと、熟練とをもって相当の稼《かせ》ぎをするのに、この荒熊の芸といってはそれよりほかに何物もないから、籠抜けの伊八が一議に及ばずこれを忌避したのは無理もなく、忌避された当人もそれですましている。
「籠さん、あっしじゃあ、いかがでゲス」
これから夜の稼ぎに出かけようとした阿房陀羅経の寸箆坊《ずんべらぼう》が、荒熊に代って口をかけてみると、
「おやおやお前も、四十二万六千石という格じゃあねえ、黙っておいで」
「おやおや」
阿房陀羅経は苦笑《にがわら》いして出て行ってしまいます。
「何しろ、芸州広島の大守、四十二万六千石、浅野様のお下屋敷から、俺らの芸をお名ざしで御贔屓《ごひいき》だ、籠抜け一枚でも曲《きょく》がねえと思うから、誰かこの仲間にお相伴《しょうばん》をさせてやりてえと思うんだが、いずれを見ても道楽寺育ちだ、荒熊でいけず、阿房陀羅でいけず、そうかと言って縄衣裳の親方や、仮声使《こわいろづか》いの兄貴でも納まらねえ、なんとか工夫はあるめえかな」
籠抜けの伊八は、なおそこにゴロゴロしている芸人どもを物色すると、
「それじゃあ、紅《べに》かんさんにお頼ん申したらよかろう」
「なるほど」
紅かんさんと言い出すものがあって、籠抜けの伊八がなるほどと首を捻《ひね》ったが、
「紅かんさんなら申し分はねえけれど、紅かんさんは聞いてくれめえよ、あの人はこちとら仲間のお大名だから」
「そりゃそうだろう。そんなら新参の友兄いをひとつ、引張り出したらどうだ」
「なるほど、友兄いは思いつきだな」
籠抜けの伊八は、ようやく得心《とくしん》がいったと見えて、急に元気づいて、
「友兄い、友兄いはいねえか」
大きな声をして後ろを顧みながら、呼んでみたが返事がありません。
「友兄い、籠さんが呼んでるよ」
集まった者共が、声を合せて呼んでみたけれども、友兄いなる者は、返事もしなければ姿も現わしません。蓋《けだ》しその友兄いなるものは宇治山田の米友のことです。
呼んでみたけれども、友兄いなるものは返事もせず、姿も見せないし、探してみてもこの家におり合せないことがわかりました。それから後、籠抜けの伊八は、誰をつれて行くことになったか、昼
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