相槌《あいづち》を打ちます。二人が面白いことというは、どちらもその内容が全く不分明でありました。内容が不分明ながらに、二人共に何か気が飢《う》えて、酒のほかにしかるべき刺戟を求めているもののようであります。
「ここの屋敷内には、女が三人いて男が二人」
 神尾は謎のようなことを言いました。
 それに返答もせずに竜之助は、酒を飲んでいました。
「やれやれ、月が出たそうな」
 なるほど、木の間から月の光が洩れて、庭へ射し込んで来るようであります。団扇《うちわ》を鳴らしながら立って柱へ片手を置き、退屈そうに、
「いい風が来る」
 月の上る方を見ていた神尾主膳が、急に何か思いついたように坐りかけて、
「机氏、机氏、ちと思いついたことがある、耳寄りな話」
と言って机竜之助の耳のあたりへ面《かお》をさしつけて、何事をか囁《ささや》いて笑い、
「さあ、これから直ぐに出かけよう」
「よろしい」
 何を思いついたのか、二人はその場で話がきまったらしく、主膳の方は急にそわそわと焦《せ》き立ちました。

         七

 それから暫くたつと、吉原の引手茶屋の相模屋というのへ二挺の駕籠《かご》が着いて、駕籠から出た時に、
「これはお珍らしい、神尾の御前」
と相模屋の内儀《ないぎ》が驚くのを、
「神尾ではない、内密内密《ないしょないしょ》」
と抑《おさ》えて先に通ったのは、やはり神尾主膳でありました。
 それにひきつづいて机竜之助が、手さぐりにして駕籠を出ようとすると、神尾は自分の眼を指さしながら、
「ここが悪い、手を引いてやってくれ」
「畏《かしこ》まりました」
 主膳は先に立ち、竜之助は女に手を引かれて茶屋へ通りました。
「今時分、思い出したように神尾の御前がお出ましになるのはどうしたものだろう、御前は甲府お勝手へお廻りになったと聞いたが……」
 表向《うわべ》は鄭重《ていちょう》に迎えたこの茶屋の内儀が、二人を案内したあとで眉をひそめました。
 ちょうどこの時分に、水道尻の燈明《とうみょう》の方から、馬鹿な面《かお》をして行燈《あんどん》の数をかぞえながら歩いて来る一人の男がありました。それは宇津木兵馬につれられて、甲州から江戸へ出たはずの金助で、
「ちょッ、詰らねえな、俺たちはああして、茶屋から大見世《おおみせ》へ送られる身分というわけじゃあなし、岡場所か、銭見世《ぜにみせ》が関の山なんだけれど、それもこのごろの懐ろ工合じゃ覚束《おぼつか》ねえや、こうして吉原の真中へ入り込んで、景気のいいところを見せつけられながら、たそや[#「たそや」に傍点]行燈の数をかぞえて歩くなんぞは我ながら、あんまり気が利かな過ぎて涙が溢《こぼ》れらあ、なんとか工面はつかねえものかな」
 金助はこんなことを言いながら、声色屋《こわいろや》がお捻《ひね》りを貰うのを羨《うらや》んでみたり、新内語りが座敷へ呼び上げられるのを嫉《そね》んだり、たまにおいらん[#「おいらん」に傍点]の通るのを見て口をあいたりしながら、笠鉾《かさほこ》の間を泳いでいましたが、
「おやおや、ありゃあ、たしかに見たことのあるお侍だ、俺の見た目に曇りはねえはずだが、もう一ぺん見直し……」
 二三間立戻って、いま箱提灯に送られて茶屋を出た、二人連れの武士体《さむらいてい》の跡を逐《お》いました。
「そうれ見ろ、間違いっこなし、見覚えのあるも道理、神尾の殿様があれだ、あれが甲府で鳴らした神尾の殿様だ。もし……」
 金助は後ろから呼び留めようと、咽喉《のど》まで声を出して引込ませ、
「向うも身分があらっしゃるから、うっかり言葉をかけて失敗《しくじ》っちゃあ詰らねえ、いったい、どこの店へお入りなさるんだか、心静かに見届けておいての上……ああ、天道|人《ひと》を殺さずとはよく言ったものだ、金助がこうして詰らなく泳いでいるのを、天が哀れと思召せばこそ、ああしていい殿様を授けて下さる」
 金助は雀躍《こおどり》をして喜びながら、駈け出して行く途端、たそや[#「たそや」に傍点]行燈の下で文《ふみ》を読んでいた侍にぶっつかろうとする。
「無礼者」
「御免下さいまし」
 危なくそれを避けて、今度は天水桶に突き当ろうとして、それも危なく身をかわし、見え隠れに神尾主膳と覚しき人のあとを追って行きました。
 神尾主膳と机竜之助とが、万字楼の見世先《みせさき》へ送り込まれようとする時に、
「もし、殿様、躑躅ケ崎の御前」
 金助がこう言って横の方から呼びかけたので、神尾主膳が振向きました。
「金助……」
「へえ、金助でございます、殿様、どうもお珍らしいところで、エヘヘヘヘヘ」
「貴様もこっちに来ているのか」
「へえ、流れ流れて、またお江戸の埃《ごみ》になりました、殿様には相変らず御全盛で結構でいらっしゃいます」
「いいところ
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