はじめに参りましたのが土屋様のお邸の歩兵さん、あとから鉄砲を持って参りましたのが西丸の歩兵さん、今にもこれへ押上って参ることと思います、お腰の物、お懐中物、残らず次へ持参致させました」
「小癪《こしゃく》にさわる奴共」
とおこったけれども、彼等を相手に争う気にもなれません。
こうして避難させられたお客は神尾主膳だけではなく、この夜、万字楼に登った客は、いちいちこうして避難させられました。
相当に身分のあるものもあり、相当に勇気のあるものもあったろうけれど、誰ひとり残って、歩兵を相手に取ると頑張るものはありません。すすめられるままに、裏手や非常口から避難してしまいました。宇津木兵馬も無論その一人です。
「金助」
非常口で兵馬は、金助を見かけたから呼びかけると、
「宇津木様、驚きましたな」
「神尾殿はどうした」
「へえ、神尾の殿様は、もう茶屋へお引取りになってしまいました」
「その茶屋へ案内しろ」
「よろしうございます」
金助は兵馬の先に立って走る。
「茶屋はどこだ」
「たしかこの辺でございましたっけ」
「ナニ、たしかこの辺、貴様はその茶屋を知らんのか」
「茶屋から送られて参りますまでの途中で、お目にかかったんですから……」
「では、確《しか》としたことはわからんのじゃな」
「何しろこの通りの騒ぎでございますから、顛倒《てんとう》してしまいました」
「この騒ぎはいま始まったことだ、神尾殿を見逃さぬよう、用心を頼んでおいたのはそれより前のことじゃ」
「それは、お頼まれ申したに違いございません、いまお知らせ申そうか、少し後にした方が都合がよいだろうかと思っているうちに、この騒ぎでございましたから」
「金助、貴様は頼み甲斐のない奴だ」
「そういうわけではございませんけれど、何しろこの通りの騒ぎで……」
「何のために拙者《わし》をここまで連れて来たのじゃ」
「どうもまことにあいすみません」
「金助、とぼけるな」
襟を取ってトンと突くと、金助は一たまりもなくひっくり返ってしまいました。
「まあ、お待ちなすって下さいまし、乱暴をなすっちゃいけません、そんな乱暴をなさると、茶袋といっしょにされてしまいますから」
やっと起き上ったのを兵馬が再びトンと突くと、金助はまたひっくり返ってしまいました。
「ようございます、それでは、わたくしが内密《ないしょ》でその茶屋をお知らせ致します。お知らせ致しますけれども、決して私が申し上げたように神尾の殿様へおっしゃっては困ります、私が恨まれますからな。さあ御案内を致しましょう。御案内は致しますけれども、多分その茶屋だろうと思いますので……そこにおいでなさるかどうか、もし、そこにおいでなさらなくても私のせいではございませんから、それで御勘弁なすって下さいまし」
「早く行け」
「あれでございます、たしかあの相模屋というのからおいでになったようでございます、あれを尋ねてごらんなさいまし、私はこの天水桶の蔭に隠れておりますから、どうぞ私の名前はお出しなさらないように、そっと当ってみておくんなさいまし」
「神尾殿の許《もと》まで参りまする」
兵馬は相模屋の店先へ軽く挨拶して、その足で座敷へ上ろうとする。
「はい、お二階にお休みでござりまする」
自分が軽く出たから茶屋の者も軽く受けました。兵馬は早速二階へ上り、屏風の中に鼾《いびき》をかいて寝ている人の枕許へ近寄って、
「神尾殿、主膳殿」
「う、う、うむ」
呼び醒《さ》まされた主膳は、唸《うな》るようなことを言って寝返りを打ちました。
「神尾主膳殿」
兵馬は、主膳の枕許の刀架《かたなかけ》から刀を取って、その鍔音《つばおと》を高く鳴らすと、
「やっ、誰じゃ」
「お目ざめでござりましたか」
「其許《そこもと》は誰でござる」
「拙者は番町の片柳と申すものでござりまする、ちとあなた様に、お尋ね申したい儀がござりまして推参致しました」
「ナニ、拙者に何を尋ねたいのじゃ、其許を拙者は知らぬ」
「親しくお目にかかるは初めてながら、拙者はあなた様が甲府に御在勤の折、よそながらお目にかかりました」
「ナニ、拙者が甲府にいた時分? 其許は甲府から何しにこの拙者を尋ねて来た」
神尾主膳は不安らしく起き直って、兵馬の面《かお》をながめました。
「私のお尋ね申したいのは、あなた様ではござりませぬ、あなた様にお聞き申したい人がござりまして」
「ナニ、拙者に聞きたい人? それは誰じゃ、誰を尋ねたいのじゃ」
「もしや、あなた様は、机竜之助というものを御存じではござりませぬか」
「知らぬ、左様な人は一向知らぬ」
「御存じない? それは真実でござりますか、真実その者の行方を御存じではござりませぬか」
「全く知らぬ、知ってはおらぬ」
「あの躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷は、あれはあ
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