しかし、この時代において、到るところで相当の噂になるほどのことが、まるっきり米友の耳に入らないというはずもありません。近藤勇という人は、人を斬ることが名人だという評判も耳にしないではありませんでした。それを今ここで、「京都は三条小橋縄手の池田屋へきりこんで長曾根入道興里虎徹の一刀を揮《ふる》い、三十余人を右と左にきって落した前代未聞の大騒動」
とこんなに誇張されてみると、米友もまた武芸の人であります。一枚買ってみようと思った時に、右の浪士体の二人に先《せん》を越されてしまいました。
「おい、お武士《さむらい》さん」
いま、読売りを買った浪士体の男を、米友が呼びかけると、
「何だ」
「その池田屋騒動の読売りというやつを、読んで聞かしておくんなさいな」
「ナニ、これを呼んで聞かしてくれと言うのか」
子供かと見れば子供ではなし、炭薪《すみまき》の御用聞でもあるかと見れば、そうでもなかりそうだし、豆絞《まめしぼ》りの頬かぶりをしたままで人に物をこうとは、大胆なような、無邪気なような米友を、二人はしばらく熟視して、
「これが聞きたいか、よし、読んで聞かせてやろう」
それから水道尻の秋葉山《あきばさん》の常燈明の下の腰掛に、二人の浪士体の男は腰をかけて、米友はそれから少し離れたところに、崩し梯子と尻を卸《おろ》して蹲《うずくま》っていました。
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「京都お手薄と心配致し居り候折柄、長州藩士等追々入京致し、都に近々放火砲発の手筈《てはず》に事定まり、其虚に乗じ朝廷を本国へ奪ひたく候手筈、予《かね》て治定致し候処、かねて局中も右等の次第之れ有るべきやと、人を用ひ間者《かんじゃ》三人差出し置き、五日早朝怪しきもの一人召捕り篤《とく》と取調べ候処、豈図《あにはか》らんや右徒党一味の者故、それより最早時日を移し難く、速かに御守護職所司代にこの旨御届申上げ候処、速かにお手配に相成り、その夜五ツ時と相触れ候処、すべて御人数御繰出し延引に相成り移り候間、局中手勢のものばかりにて、右徒党の者三条小橋縄手に二箇|屯《たむろ》いたし居り候処へ、二分に別れ、夜四ツ時頃打入り候処、一ケ所は一人も居り申さず、一ケ所は多勢潜伏いたし居り、かねて覚悟の徒党のやから手向ひ、戦闘|一時《いっとき》余の間に御座候……」
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「なるほど」
この二人の浪士もまた、米友並みに、何かわざわざ時間を潰《つぶ》す目的のためにここへ入り込んだものとしか思われません。そうでなければ、いくら物好きだからといって、米友を相手にこうして、摺物《すりもの》を読んで聞かせるはずがありません。
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「……折悪《をりあし》く局中病人多く、僅々三十人、二ケ所の屯所に分れ、一ケ所、土方歳三を頭として遣はし、人数多く候処、其方には居り合ひ申さず、下拙《げせつ》僅々人数引連れ出で、出口を固めさせ、打入り候もの、拙者初め沖田、永倉、藤堂、倅《せがれ》周平、右五人に御座候、かねて徒党の多勢を相手に火花を散らして一時余の間、戦闘に及び候処、永倉新八郎の刀は折れ、沖田総司刀の帽子折れ、藤堂平助の刀は刃切《はぎれ》出でささらの如く、倅周平は槍をきり折られ、下拙刀は虎徹故にや無事に御座候……」
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「なるほど」
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「実にこれまで度々戦ひ候へ共、二合と戦ひ候者は稀に覚え候へ共、今度の敵多勢とは申しながら孰《いづ》れも万夫不当の勇士、誠にあやふき命を助かり申候、先づは御安心下さるべく候……」
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「なるほど」
米友はしきりに感心して、近藤勇がはるばる京都から、江戸にいる養父周斎の許《もと》へ宛てたという手紙のうつしを、読んでもらって聞いてしまいました。
その途端《とたん》に、江戸町一丁目あたりで、つづけざまに二発の鉄砲が起りました。
米友も驚いたが、二人の浪士も驚いて立ち上ります。
この時分、万字楼の前で、十余人の茶袋がみんな刀を抜いて振り廻し、多数の弥次馬がそれを遠巻きにして、一人残さずやっつけろと叫んでいる光景は、かなりものすさまじいものでありました。
その最中、取巻いた群集の後ろで不意に二発の鉄砲が響きました。それと共に哄《とき》の声を上げて一隊の歩兵が――どこに隠れていたものか知らん、刀を抜いて群衆の後ろから無二無三にきり込んで来たので、吉原の廓内《くるわうち》が戦場になりました。
酒宴半ばにこの騒ぎを聞いた神尾主膳は、さすがに安からぬことに思いました。
そこへ、主人が飛んで来て、
「ごらんの通りの始末でございます、お客様に万一のお怪我がありましては、申しわけのないことでございます、何卒、この間にお引取り下さいますよう、御案内を申し上げまする。あれは歩兵さん方でございます、
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