の疲れで寝込んでしまったのに、米友はそこへ帰って来た模様はありません。
芸州広島の大守も、四十二万六千石も、肝腎《かんじん》の当人がいないでは、お流れになるよりほかはありませんでした。しかし、米友はただいまここに居合せないまでも、昨今この道楽寺に身を寄せていることだけは、疑いのないことの証拠があります。
米友はここへ身を寄せて、それらの芸人の仲間に加わって、独得の芸当をして折々、人通りの多い大道に面《かお》を曝《さら》すことを、たしかに見届けた者があります。
論より証拠、今宵カンテラを点《とも》して、浅草の広小路で梯子芸《はしごげい》をやっているその人が、宇治山田の米友であります。
「さあ、退《ど》いていろ、もう一遍やって見せるからな。危ねえ、子供は遠くへいってろ、怪我《けが》あするとよくねえからな。さあ、これから宙乗りをはじめる」
紺の股引《ももひき》腹掛《はらがけ》を着た米友は、例の眼をクリクリさせて、自分のまわりを取捲いている群集を見廻し、高さ一丈二尺ほどある漆塗《うるしぬ》りの梯子を大地へ押し出して、それに片手をかけました。
「ちっとばかりことわ[#「ことわ」に傍点]っておくがね、俺《おい》らはこの通り片足が少し悪いんだ、左の足は自由が利くけどな、右の足は人並でねえんだ、その左の一本でこの梯子へ上って芸当をやって見せようというんだから、骨が折れらあ」
「アイアイ、左様でごさい」
見物の中からこんなことを言い出すものがあったから、見物人一同が哄《どっ》と吹き出しました。吹き出さないのは当人の米友一人だけです。
「冗談《じょうだん》じゃねえ、芸をやる時はこれでも俺らは真剣なんだ、冷《ひや》かしたり、交《まぜ》っ返したりすると芸に身が入らねえや、芸に身が入らなければ、見ている奴も面白くねえし、やっている当人も面白くねえや、どっちも面白くねえものをやって見せるも詰らねえから、俺らは宙乗りをやめて帰るよ」
「なるほど、理窟だ、怒らねえでやってくんな、こっちも真剣で見ているんだからな。それ兄さん、お志だよ」
見物の中からこう言って、バラリと銭を投げ込んだものがありました。
「有難え」
と言って米友は、足許に転がっていた蕎麦《そば》の笊《ざる》に柄をすげたようなものを、左の手で拾い取ると見れば、その投げた銭をらくにその中へ受け入れて、右の手ではやっぱり梯子を押
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