「洗濯をなさるか、可愛い人へ、お心づくしのために」
 主膳はお銀様の面《かお》を覗《のぞ》きました。お銀様は、その時にツイと立ってまた井戸縄へ手をかけると、神尾主膳は慌《あわ》ててそれを押え、
「はッ、はッ、はッ」
と声高く笑いました。その笑い声を聞くと、お銀様は井戸縄へ手をかけたままで、じっと神尾主膳の面《おもて》を睨めます。
「躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷にこれと同じような井戸があった、その井戸で、そなたの好きな幸内とやらに、たんと水を呑ましてやったことがあるわい、それから以来、夕方にこの車井戸の軋《きし》る音を聞くと、拙者は胸が悪くなってたまらぬ、この車井戸の音が癪にさわる」
 お銀様の持っている井戸縄を、片手でもって主膳は横の方から引ったくりました。
「何をなさる」
 お銀様は強い声でありました。
「は、は、は」
 神尾の笑い方は尋常の笑い方ではありません。その笑い方を聞くとお銀様はブルブルと身を慄わせ、
「幸内の敵《かたき》」
 思わずこう言って歯を噛むと、
「ナニ、幸内の敵がどうした、たかが馬を引張る雇人の命、この神尾が手にかけてやったのを過分と心得ろ、敵呼ばわりがおかしい、あッははは」
「ああ、口惜《くや》しい」
「何が口惜しい。なるほど、幸内は拙者の手にかけて亡き者にしてやった、お前の好きな幸内は拙者のためにならぬ故、亡き者にしたけれど、その代り、お前には別に好きな人を授けてやったはず」
「ああ、幸内がかわいそうだ」
 お銀様は火を吐くような息を吐き、神尾の手から井戸縄を奪い取って、力を極めて車井戸を軋《きし》らせました。
「汝《おの》れ!」
 神尾主膳は再びその井戸縄を奪い返そうとして、流しの板の上によろよろとよろめきます。それには頓着なく水を汲み上げたお銀様は、今、流しの板から起き上ろうとする神尾主膳の姿を見ると、むらむらと堪《こら》えられなくなったと見えて、
「エエ、どうしようか」
 汲み上げた水を釣瓶《つるべ》のまま、ザブリと主膳の頭の上から浴びせてしまいました。
「やあ、慮外の振舞」
 慌てて起き上ろうとするところを、お銀様は傍《かたえ》にあった手桶を取り上げて、中に残っていた水を柄杓《ひしゃく》ともろともに、畳みかけて主膳の頭の上から浴びせてしまいました。主膳としても不意であったろうし、お銀様としても、我を忘れた乱暴な仕打《しう
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