か」
「水を汲んで悪いとは言わん、車井戸を鳴らしてはいかんのじゃ」
「それでも、車を鳴らさずに、あの井戸の水を汲むわけには参りますまい」
「拙者《わし》はあの井戸の音が嫌いじゃ、今時分あれを聞くと堪《たま》らん、なにも拙者の嫌いな車井戸を、ワザとああして手繰廻《たぐりまわ》すには及ばんじゃないか」
「それは御前の御無理でございます、何か御用があるからそれで、水をお汲みなさるんでございましょう、御前をおいやがらせ申すために、水を汲んでいらっしゃるのではござんすまい」
「あれ、まだよさんな。よし、拙者が行って止めて来る」
神尾主膳は刀を提げて立ち上りました。その心持も挙動も、酒の上と見るよりほかには、お角には解釈の仕様がありません。
「まあ、お待ちあそばせ」
お角は主膳を遮《さえぎ》ってみたけれど、主膳は聞き入れずに縁を下りて、庭下駄を突っかけました。お角はなんとなく不安心だから、それについて庭へ下りました。
化物屋敷へ人が住むようになったけれども、この庭まではまだ手入れが届いていません。八重葎《やえむぐら》の茂るに任せて、池も、山も、燈籠《とうろう》も、植木も、荒野原の中に佇《たたず》んでいるもののようです。裏手の井戸へ行こうとするらしい主膳の姿が、その雑草の中に隠れるのを、お角はあとを跟《つ》いて行くと、お角の姿もその雑草の中に隠れてしまうほどに、萩や尾花が生《お》い覆《かぶ》さっています。
「誰じゃ、そこで水を汲んでいるのは」
井戸端にいる人は返事をしませんでした。主膳は焦《じ》れた声で、
「そこで夜《よ》さり水を汲んではいかん、この井戸は、化物屋敷の井戸で、曰《いわ》くのある井戸と知って汲むのか、知らずに汲むのか」
こう言われたけれども井戸端では、やはり返事がありません。たしかに人はいるにはいるのです。それも白い浴衣《ゆかた》を着た人が少なくとも一人は、しゃがんでいることは誰の眼にもわかります。
「誰じゃ、そこで水を汲んでいるのは」
しつこく繰返して井戸端へ寄った神尾主膳、酔眼をみはって、
「お銀どのではないか」
それはお銀様でありました。お銀様は盥《たらい》に向って何かの洗濯をしているところであります。さきほどから神尾が、再三言葉をかけたのが聞えないはずはありません。それに返答をしないのみか、こうして摺寄《すりよ》って来ても見向きもしませんでした
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