った時の返事は、なまめかしい女の声であったということが、この酒屋の者の話の種でありました。それから毎日一升ずつの酒が、この屋敷へ運ばれたけれど、御用聞の小僧は、主人らしい人も、奥様らしい人も、また家来衆、雇人たちのような人の面《かお》をも、まだ見かけたことがありません。
「毎度有難うございます……」
と言って酒をそこへ置くと、
「どうも御苦労さま、それから明日はお醤油《したじ》に波の花を……」
というような注文が台所のなかから聞えて、それは女ではあるけれども、さっぱり面を見せないのが変だといえば変であります。売掛けもどうかと思って、その月の半端《はんぱ》の分を纏《まと》めて書付にして出すと、その翌日は綺麗《きれい》に払ってくれました。支払の信用と共に化物の疑念は取れて、それより以上にこの屋敷を怪しがるものはありません。
 この屋敷の一間で庭をながめながら、晩酌を試みているのは化物でもなんでもない、正真《ほんもの》の神尾主膳であります。甲府を消えてなくなった神尾主膳が、ここへ来て浴衣《ゆかた》がけで酒を飲んでいるところを見れば、かくべつ病気であったとも見えないし、また穢多に浚《さら》われて、ここへ流されたものとも見えません。
 それと、面白いことは、神尾の前に晩酌のお相手をしているのが、勝沼の宿屋にいた、もとの両国の女軽業《おんなかるわざ》の親方のお角《かく》であることであります。
「お角、お前はそんなに金が欲しいのか」
 神尾は盃を置いて、お角の面《かお》を見ました。
「御前《ごぜん》、ほんとに、わたしは今となってお金があったらと思います、何をしようにもお金がなくては動きが取れません、全く水気《みずけ》の切れたお魚のようなものでございます」
「それは御同前だ」
と言って、神尾は苦笑いをしました。
「殿様などは失礼ながら、お金をお持たせ申せば、直ぐに使っておしまいなさるけれども、わたしなんぞはそうではございません、それを資本《もとで》に、一旗揚げてみようというのでございますから、全く心がけが異《ちが》いますよ」
「全く頼もしい、お前に金を持たせれば、何か一仕事やるだろう、そこは拙者も見ているけれど、残念ながら金は無い、拙者は金がない上に、世間に面向《かおむ》けもできん、うっかりすると命までなくする」
「それでございますからね、わたしが少し資本《もとで》を工面《くめん》
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