ければ、前途もあるのではありません。
 今、お銀様に離るることしばし、こうして雨を聞いていると、竜之助の心もまた淋《さび》しくなります。この人の心が淋しくなった時は、世の常の人のように道心が萌《きざ》す時ではありません。むらむらとして枕許に投げ出してあった刀を引き寄せて、ガバと身を起しました。例によって蒼白《あおじろ》い面《かお》であります。竜之助が引き寄せた刀は、神尾主膳の下屋敷にいる時分に貰った手柄山正繁《てがらやままさしげ》の刀であります。それをまた燈火に引き寄せてはみたけれど、さてどうしようというのではなし、茫然として坐り直して、刀を膝へ置いたばかりであります。
 その時に家の外で、急に人の声が噪《さわ》がしくなりました。
「危ねえ、土手が危ねえ」
という声。
「旦那様、笛吹川の土手も危ないそうでございます、山水《やまみず》も剣呑《けんのん》でございます、水車小屋は浮き出しそうでございます、あらくの材木はあらかたツン流されてしまいました、今にも山水がドーッと出たら大変なことになりそうでございます、誰も今夜は、寝るものは一人もございません」
 小泉の主人にこう言って注進に来たのは、小前《こまえ》の百姓らしくあります。洪水《おおみず》の出る時としてはまだ早い、と竜之助は思ったけれども、この降りではどうなるか知らんとも思いました。
 笛吹川はこれよりやや程遠いけれど、それへ落つる沢や小流れの水が、決して侮り難いものであることは、竜之助も推量しないわけではありません。
 ことに山国の出水《でみず》は、耳を蔽《おお》い難きほどの疾風迅雷の勢いで出て来ることをも聞いていないではありません。不幸にして山国とだけは心得ていても、この辺の地形についてまるきり観測の余地のない竜之助は、果して出水がどの辺に当って起り、どの辺に向って来るんだか、充分に呑込めていないのでありました。白刃の来《きた》ることと、天災の来ることとはあらかじめ測ることができません。いま出水の危険を外に聞いた竜之助が、それと共に自分の立場を考え出したことは、そうあるべきことであります。しかし、それはただ立場を考えただけに過ぎません。盲目的に考えてみただけに過ぎません。ここに引き寄せた手柄山正繁の刀が、それに向って何の役に立つものでないことはよくわかっているはずであります。この時に外で殷々《いんいん》と半鐘を撞
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