大菩薩峠
黒業白業の巻
中里介山
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)八幡村《やわたむら》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)百姓|一揆《いっき》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]
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一
八幡村《やわたむら》の小泉の家に隠れていた机竜之助は、ひとりで仰向けに寝ころんで雨の音を聞いていました。雨の音を聞きながらお銀様の帰るのを待っていました。お銀様は昨日、そっと忍んで勝沼の親戚まで行くと言って出て行きました。今宵はいやでも帰らねばならぬはずなのに、まだ帰って来ないのであります。
お銀様は、竜之助を連れて江戸へ逃げることのために苦心していました。勝沼へ行くと言ったのも、おそらくは親戚の家を訪《と》わんがためではなくて、いかにして江戸へ逃げようかという準備のためであったかも知れません。
こうして心ならずも小泉の家の世話になっているうちに、月を踰《こ》えて梅雨《つゆ》に打込むの時となりました。昨日も今日も雨であります。明けても暮れても雨であります。ただでさえ陰鬱《いんうつ》きわまるこの隠れ家のうちに、腐るような雨の音を聞いて竜之助は、仰向けに寝ころんでいるのであります。
雨もこう降っては、夜の雨という風流なものにはなりません。竜之助はただ雨の音ばかりを聞いているのだが、一歩外へ出ると、そのあたりの沢も小流れも水が溢《あふ》れて、田にも畑にも、いま自分の寝ている縁の下までも水が廻っていることは知らないのであります。
梅雨《つゆ》になるまでには、花も咲きました、木の葉も青葉の時となったことがありました、野にも山にも鳥のうたう時節もあったのだけれど、それも見ずに雨の時節になって、その音だけが耳に入るのであります。
竜之助とお銀様との間は、なんだか無茶苦茶な間でありました。それは濃烈な恋であったかも知れないし、自暴《やけ》と自暴との怖ろしい打着《ぶっつ》かり合いであるようでもあるし、血の出るような、膿《うみ》の出るような、熱苦しい物凄《ものすさま》じい心持がここまでつづいて、おたがいにどろどろに溶け合って、のたりついて来たようなものであります。おたがいに光明もな
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