の紋に初めて気がつきました。
 ちょうどその時であります、行手の両国橋の上で、
「あれ――危ない」
という声。
 柳の蔭へ槍を隠して橋を渡ろうとした米友は、この声を聞くと共に、その槍を押取《おっと》って驀然《まっしぐら》に駈け出しました。
 この時にあたっての米友は、もはや辻番の咎《とが》めを顧慮している遑《いとま》がありません。隼《はやぶさ》のように両国橋の上を飛びました。その時分に、橋の真中のあたりの欄干から身を躍らして……川をめがけて飛び込んだものがあるらしい。
「助けて――」
 絶叫と共に、ざんぶと水の音が立ちました。米友は橋の欄干に、一領の衣類がひっかかっているのを見ました。それは身分ある女の着るべき裲襠《うちかけ》であります。
「おい、どうしたんだ」
 提灯《ちょうちん》をかざして橋の下を見ると、波の上に慥《たしか》に物影があって、しきりに浮きつ沈みつしていることを認めました。
「はい、ムクがいるから助かります、この犬が、わたしを助けてくれます」
 水の中から人の声。
「ナニ、ムクだって? 犬がお前を助けるんだって、それじゃあお前は、君公だな」
 米友は、橋の板を踏み鳴らしました。
「チェッ」
 槍を橋板の上へさしおいて、
「ばかにしてやがら、この尾上岩藤《おのえいわふじ》のお化けみたようなやつが癪《しゃく》に触らあ、何だって今頃、両国橋をうろついてるんだ、駒井能登守という野郎にだまされて、それからいいかげんのところで抛《ほう》り出されて、身の振り方に困ってここへ身投げに来たんだろう、ザマあ見やがれ、俺《おい》らは知らねえぞ、第一、このビラシャラが癪に触らあ、この尾上岩藤が気に喰わねえ、ザマあ見やがれ」
 米友はこう言って罵《ののし》って、欄干にひっかかっている裲襠《うちかけ》を蹴飛ばしたが、それでも提灯をずっと下げて川の中を見下ろし、
「馬鹿野郎」
 たまり兼ねた宇治山田の米友は、提灯をさしおいて帯を解きにかかりました。

 それから両国橋の上へ数多《あまた》の提灯が集まったのは、久しい後のことではありません。
 それをよそにして、矢の倉の河岸《かし》、本多|隠岐守《おきのかみ》の中屋敷の塀の外に立っているのは、例の頭巾を被った机竜之助であります。机竜之助は竹の杖をついてその塀の下に立っていました。ここから見れば、両国橋の側面は、その全体を見ることもで
前へ 次へ
全100ページ中92ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング