ているのだから、何人《なんぴと》もこの主従の異形《いぎょう》な夜行《よあるき》を見てあやしむものはありません。
少しばかり歩き出した時に、悄々《しおしお》と歩いていたムク犬が後ろを見返りました。
「何をしているの、早く歩かなければ夜が明けてしまいます」
お君は扱帯の端を強く引張りました。けれどもムク犬にはこたえませんでした。
「早くお歩きよ、夜が明けると少し都合が悪いことがあるんだから」
それでもムク犬は動きませんでした。
「あれはお前、向う両国で、左へ曲ると駒止橋、真直ぐに行けば回向院、それを左へ曲ると一の橋、一の橋を渡らないで竪川通《たてかわどお》りを真直ぐに行くと相生町」
お君はこんなことを繰返して、ぼんやりとこし方《かた》をながめながら立っていました。
「おや、誰か人が来るのだね、人が来るからお前はそれを待ってるのかい」
この夜は真夜中過ぎとはいえ、月のない夜ではありませんでした。鎌よりは少し幅の広い月が、たしか愛宕《あたご》の山の上あたりに隠れていなければならない晩でありました。だから九十六間の両国橋の上に物の影があるとき、それが全く認められない程の晩ではありません。この時分に、橋の左の方の側をふらふらと歩いて行く黒い人影がありました。さてこそムク犬が、それに感づいたのは不思議ではありません。
その黒い人影というのは、頭巾をかぶって、竹の杖をついた辻斬の人であります。米友を出し抜いて弥勒寺長屋《みろくじながや》を出た竜之助は、いつのまにか、こうしてここまで来ていました。
お君はゾッとして、
「まあ、なんだか怖くなってしまった、早く行きましょう、お前は誰に見られてもかまわないか知らないが、わたしはそうはゆかないの、夜の明けないうちにこの橋を渡りきらないと、あとから追手がかかるかも知れないから」
お君は強く扱帯《しごき》を引張りながら西へ向いて歩き出しましたけれど、犬はいっかな身動きもしません。頑《がん》として主人の意に従わないのみか猛犬は、かえって猛然として牙《きば》を鳴らしました。
犬が牙を鳴らした時に、人が近づいています。
駒止橋を渡って右手のところに辻番があるにはあるのです。しかしこの番人は、昼のうちお葬式が、橋の上を幾つ通ったかということを数えていればそれで役目の済む番人でしたから、深夜、眠い目をこすって、メソッコを売る必要はなか
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