放《ぶっぱな》すというのは、おそらく前代未聞だろう」
「それにしても宇津木はいったい、どこの何という店にいるのじゃ」
「それがわからないから困ったのよ、あの娘たちに頼まれてここまで出向いて来たけれど、娘たちはただ吉原とばかりで、吉原の何町の何という家へ行ったのだか一向知らん、吉原とさえ言えばそれでわかるように思うているところが、娘たちの身上だ」
「もし宇津木の身に間違いでもあられては、せっかく頼まれて来た我々が娘たちに対して面目がない」
「そうかといってこの場合、迷子《まいご》の迷子の宇津木兵馬やあいと、呼ばわって歩くわけにもゆかない」
「困ったものじゃ」
 二人の浪士は下の光景を見ながら、しきりに困惑しているようであります。
 この二人の浪士は、さきに宇津木兵馬と共に甲府の牢を破って出た南条と五十嵐とであります。
 この時、下界のこの混乱の中へ、どこをどうして紛《まぎ》れ込んだか一挺の駕籠《かご》がかつぎ込まれたのは、奇観ともなんとも言いようがありません。さてはいかなる勇士侠客が仲裁に来たのかと、さしもの群集が暫く鳴りを静めて見つめているうちに、
「ナーンだ、お医者さんか」
と呆《あき》れ返ったのは、それが普通の駕籠ではなく、切棒の駕籠であったからです。本来、吉原へは医者のほかは、乗物では入れないことになっています。
「おい、道庵がやって来たぞ、万字楼に病人を一人取残しておいたから、先生、ぜひひとつ行って助けて来ておくんなさいと頼まれたから、道庵が出向いて来たんだ、ばかにするない」
 切棒の駕籠、すなわちあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]の中で、しきりに怒鳴っているのが道庵先生です。
 酔っぱらっているとは言いながら先生、飛んでもない所へ出て来たものだと見物の中にはハラハラする者が多かったけれど、先生自身も酔っているし、駕籠舁《かごかき》にもしたたか飲ませているものだから、見ていられない恰好をしてこの騒ぎの中へ、よたよたと舁《かつ》ぎ込んだものです。
 それが忽《たちま》ち茶袋にとっつかまったのはあたりまえです。取捉まって引き出されるまで道庵は気焔《きえん》を揚げていましたけれど、茶袋は取り上げる限りではない。引き出して、天水桶の水をぶっかけて、弄《なぶ》り殺《ごろ》しにも仕兼ねまじきところを、屋根の上にながめていた宇治山田の米友が、
「あっ、ありゃ長者町の先生だ」
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