いいえ、こうして参上致しました以上は、お尋ね申した御返事をお聞き申すまでは、この座を立ちませぬ」
と言いながら兵馬は、右の腕を伸べて、外側から大きく神尾主膳の首を抱きました。
「汝《おの》れ、この主膳を……手込めにしようとするな」
「お返事をお聞き申すまでは、こうしておりまする」
 兵馬は外から大きく神尾主膳の首を抱くと共に、力を極めてそれを自分の胸へ押しつけました。
「アッ、苦しい」
 主膳は苦しがって眼を剥《む》きました。苦しがったけれども、これは金助とは違います、たとえ今の自分が世を忍ぶ身であろうとも、かりにも神尾主膳ほどのものを捉《とら》えて、腕力で強迫して物を尋ねようとは言語道断の無礼であるという怒りは、その苦しさと一緒にこみ上げてきました。いわんや年もゆかぬ小童《こわっぱ》、見も知らぬ推参者にかかる無礼を加えられては、死んでも弱い音《ね》は吹けないのが神尾としての身上《しんじょう》であります。それだから苦しいのを堪《こら》えて、ジタバタしながら兵馬を押し退けて、刀を抜こうとするのであります。
「さあ、お聞かせ下さるか、それとも」
 こうなった以上は、兵馬もまた力ずくであります。力を緩《ゆる》めると、
「無礼な奴、斬って捨てる」
 主膳は直ぐにつけ込んではねあがって刀を抜こうとしますから、兵馬は再びその首を自分の胸へ、いよいよ強く押しつけるよりほかに仕方はありません。
「アッ、苦しいッ、放せ」
「お聞かせ下さらぬ以上は、決してお放し申しませぬ」
「放せッ、苦しい、死ぬ」
「放しませぬ」
「く……」
「さあ、お聞かせ下さい」
「く、死……」
 ほとんど死物狂いで主膳がもがくから、兵馬はそれに応じて満身の力を籠めて抱き締めると、やがて急に主膳の力が抜けました。力が抜けたかと思うと、ガックリとその首を、兵馬の胸へ垂れてしまいました。
「や、息が絶えた、死なれたか」
 兵馬も我ながら驚きました。知らず知らず自分は、神尾主膳を絞《し》め殺してしまったものらしくあります。

         十二

 この場にも意外の変事が起りましたけれど、これを外の騒ぎに比べると物の数ではありません。万字楼の前を中心にして、吉原の廓内で市街戦が起っているようなものであります。
 秋葉山《あきばさん》の大燈籠の下で、近藤勇の手紙の摺物《すりもの》を読んでいた二人の浪士と、それを聞いて
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