ます。お知らせ致しますけれども、決して私が申し上げたように神尾の殿様へおっしゃっては困ります、私が恨まれますからな。さあ御案内を致しましょう。御案内は致しますけれども、多分その茶屋だろうと思いますので……そこにおいでなさるかどうか、もし、そこにおいでなさらなくても私のせいではございませんから、それで御勘弁なすって下さいまし」
「早く行け」
「あれでございます、たしかあの相模屋というのからおいでになったようでございます、あれを尋ねてごらんなさいまし、私はこの天水桶の蔭に隠れておりますから、どうぞ私の名前はお出しなさらないように、そっと当ってみておくんなさいまし」
「神尾殿の許《もと》まで参りまする」
兵馬は相模屋の店先へ軽く挨拶して、その足で座敷へ上ろうとする。
「はい、お二階にお休みでござりまする」
自分が軽く出たから茶屋の者も軽く受けました。兵馬は早速二階へ上り、屏風の中に鼾《いびき》をかいて寝ている人の枕許へ近寄って、
「神尾殿、主膳殿」
「う、う、うむ」
呼び醒《さ》まされた主膳は、唸《うな》るようなことを言って寝返りを打ちました。
「神尾主膳殿」
兵馬は、主膳の枕許の刀架《かたなかけ》から刀を取って、その鍔音《つばおと》を高く鳴らすと、
「やっ、誰じゃ」
「お目ざめでござりましたか」
「其許《そこもと》は誰でござる」
「拙者は番町の片柳と申すものでござりまする、ちとあなた様に、お尋ね申したい儀がござりまして推参致しました」
「ナニ、拙者に何を尋ねたいのじゃ、其許を拙者は知らぬ」
「親しくお目にかかるは初めてながら、拙者はあなた様が甲府に御在勤の折、よそながらお目にかかりました」
「ナニ、拙者が甲府にいた時分? 其許は甲府から何しにこの拙者を尋ねて来た」
神尾主膳は不安らしく起き直って、兵馬の面《かお》をながめました。
「私のお尋ね申したいのは、あなた様ではござりませぬ、あなた様にお聞き申したい人がござりまして」
「ナニ、拙者に聞きたい人? それは誰じゃ、誰を尋ねたいのじゃ」
「もしや、あなた様は、机竜之助というものを御存じではござりませぬか」
「知らぬ、左様な人は一向知らぬ」
「御存じない? それは真実でござりますか、真実その者の行方を御存じではござりませぬか」
「全く知らぬ、知ってはおらぬ」
「あの躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷は、あれはあ
前へ
次へ
全100ページ中58ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング