すみす目玉の飛び出るほど高い場代を払って門の中へ入り込むと、人気というものはおかしなもので、ついには我も我もと先を争って切符を買うような景気になって、門内へなだれ込みます。
 さすがに鰡八大尽のすることは、こんな些細なことまでも違ったものであります。道庵などは、貧乏人のくせに身銭《みぜに》を切って馬鹿囃子を雇い、家業をそっちのけにして騒いでいるのに、大尽は大評判を立てた上に、こんなことでも充分に算盤《そろばん》を取れるようにするのだから、どのみち相撲にはなりませんでした。しかし、これは鰡八が豪《えら》いというよりも、お附の作者や狂言方の仕組みが上手なので、それがために一段と、大尽の器量を上げたと言った方がいいのかも知れません。
 この園遊会も、余興も、朝鮮芝居も、ことごとく大成功でありました。その日一日でおしまいというわけではなく、当分の間、毎日つづくのであります。市中一般においては、これを見なければ話にならないから、毎日毎日、続々と詰めかけて来ました。日のべを打てば打つほど儲《もう》かった上に評判が高いのでありますから、鰡八の御機嫌も斜めではないし、お出入りの人々も恐悦に感ずるし、作者や狂言方のお覚えも結構なものであります。
 ここに哀れをとどめたのは道庵先生で、せっかく図に当った馬鹿囃子は、この園遊会と朝鮮芝居のために、すっかり圧《お》されてしまいました。隣からは毎日毎日、この景気で見せつけられているのに、もう馬鹿囃子でもなし、そうかと言って、それに対抗するには上野の山内でも借受けて、和蘭芝居《オランダしばい》の大一座でも買い込んで来なければ追附かないのであります。それは先生の資力では、トテも追附かないことであります。
 道庵はそれがために苦心惨憺しました。自分の知恵に余って、子分の者を呼び集めて評定《ひょうじょう》を開いてみましたけれど、いずれ、道庵の子分になるくらいのものだから、資力においても知恵袋においても、そんなに芳《かんば》しいものばかりありませんでしょう。
 いよいよ大尽にぶっつかる手術《てだて》がなければ最後の手段は、先生が口癖に言う毒を飲ませることのみだが、口にこそ言うけれど、この先生は毒を飲ませて人を殺すような、そんな毒のある人間ではありません。

         二

 ここにまた、前に見えた「貧窮組」のことについて一言しなければならなくなりました。貧窮組というのは、一種の不得要領な暴動でありました。明治六年の出版にかかる「近世紀聞」という本に、その時代のことをこんなふうに書いてあります。
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「是より先、米価次第に沸騰して、既に大阪市中にては小売の白米一升に付《つき》銭七百文に至れば、其日稼《そのひかせ》ぎの貧民等は又|如何《いかん》とも詮術《せんすべ》なく殆ど飢餓に及ばんとするにぞ、九条村且つ難波村など所々に多人数寄り集まり不穏の事を談合して、初めは市中の搗米屋《つきごめや》に至り低価《ねやす》に米を売るべしとて、僅の銭を投げ出し店に積みたる白米を理不尽に持行くもあり、或は代価も置かずして俵を奪ひ去るもあれど多人数なる故|米商客《こめあきうど》も之を支《ささ》ゆる事を得ず、斯《かく》の如くに横行して大阪中の搗米屋へ至らぬ隈《くま》もなかりしが、果《はて》はますます暴動|募《つの》りて術《すべ》よく米を渡さぬ家は打毀《うちこは》しなどする程に、市街の騒擾《そうじよう》大かたならず、這《こ》は只|浪花《なには》のみならず諸国に斯る挙動ありしが、就中《なかんづく》江戸に於ては米穀其他総ての物価又一層の高料《たかね》に至れば、貧人飢餓に耐へざるより、或は五町七町ほどの賤民おのおの党を組みて、身元かなりの商家に至り押して救助を乞はんとて其町々に触示《しよくじ》し、※[#「にんべん+尚」、第3水準1−14−30]《もし》其の党に加はらざれば金米その他何品にても救助の為に出すべき旨強談に及ぶにぞ、勢ひ已《やむ》を得ざるより身分に応じ夫々《それぞれ》に物を出して施すもあり、力及ばぬ輩《やから》は余儀なく党に加はるをもて、忽《たちま》ち其の党多人数に至り、軈《やが》て何町貧窮人と紙に書いたる幟《のぼり》をおし立て、或は車なんどを曳いて普《あまね》く府下を横行なし、所々にて救助を得たる所の米麦又は甘藷《さつまいも》の類《たぐひ》を件《くだん》の車に積み、もて帰りて便宜の明地《あきち》に大釜を据ゑ白粥を焚きなどするを、貧民妻子を引連れ来りて之を争ひ食へる状《さま》は、宛然《さながら》蟻《あり》の集まる如く、蠅の群がるに異ならで哀れにも浅間《あさま》しかり、されば一町|斯《かく》の如き挙動に及ぶを伝へ聞けば隣町忽ちこれにならひ、遂に江戸中貧民の起り立たざる場所は尠《すくな》く……云々」
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 これによって見ると「近世紀聞」の記者は、貧窮組を蟻の集まる如く、蠅の群がるに異ならずと見たのであります。貧民といえども人間であろうのに、それを蟻や蠅と同じに見られたということは不幸であります。
 けれども蟻や蠅に見立てられる貧民自身にとっては、必ずしも物好きでやったことではないらしいのであります。彼等にあっては、天下が徳川のものであろうと、薩長の手に渡ろうと、そんなことは大した心配ではありませんでした。ただ心配なことは、物が高くなって食えなくなるということでありました。
 天下国家の大きなことを憂《うれ》うる人には、別に志士という一階級があって、それは殿様から代々|御扶持《ごふち》をいただいて、食うというような賤《いや》しいことには別段の心配のなかった者や、その家庭に生い立った人が多いのであります。けれども、この貧窮組は生え抜きの平民でありました。武士は食わねど高楊枝《たかようじ》、というようなことを言っておられぬ身分の者ばかりでありました。彼等は食いたくてたまらないのであります。世に食いたくてたまらないものが食えなくなるということほど、怖るべき事実はないのであります。蟻や蠅でさえ生きていられる世の中に、人間が食えなくなって生きていられないという世の中は、無惨《むざん》なものといわねばなりません。
 それがためであったかどうか知れないが、あの不得要領な貧窮組が勃発して江戸市中を騒がすと共に、有司《ゆうし》も金持も不得要領に驚いてしまいました。ことに驚いたのは金持の連中でありました。一時は生きた空がなくて、金品を寄附したり、慈善会のようなものを起したりして、貧民の御機嫌を取ろうとしてみた狼狽《あわ》て方はかなり不得要領なものでありました。けれどもそれは、誠意のある狼狽て方ではなく、不得要領はいよいよ不得要領な狼狽て方であります。
 けれどもその時分の政治は、打てば響くような政治ではありませんでした。徳川幕府が亡びかかった時代の政治でありました。米が高くなろうとも、物価が上ろうとも、幕府の方では、あんまり干渉をしませんでした。いよいよの時までは成行きに任せておいて、何か出たら出た時の勝負というような政治でありました。
 金持の連中もまた、儲《もう》けたい奴は盛んに儲け、儲けた上に莫大の配当をしました。そうして、大ビラで贅沢《ぜいたく》や僭上《せんじょう》の限りを尽しました。蟻や蠅なんぞは踏みつぶして通る勢いでしたけれども、その蟻や蠅が多数を組んであばれ出してみると、唇の色を変えて周章狼狽した有様は、滑稽にもまた不得要領の現象でありました。
 さすがに緩慢主義の幕府も、こう騒ぎ出されてみると、手を束《つか》ねてばかりはいられませんでした。同じ「近世紀聞」という本のうちに、
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「其頃既に庄内藩には府下非常を誡《いまし》めのため常に市中を巡邏《じゆんら》あり、且つ南北の町奉行にも這回《このたび》の暴挙を鎮撫なさんと自ら夥兵《くみこ》を従へつつ普《あまね》く市街を立廻りて適宜の処置に及ばんとするに、貧民は早や食ふと食はぬの界に臨みたるなれば、各《おのおの》死憤の勢ありて小吏等万般説諭なせどもなかなかに鎮まらず、或は浅草今戸町その外処々の辻々へ貧窮人等が張札をして区々の苦情を演《の》べたるうへ、先づ差当り白米の代価百文に付《つき》五合ならねば窮民口を糊《こ》し難しと記し、また或は米穀は固《もと》より諸色《しよしき》の代価速かに引下ぐるにあらずんば忽ち市中を焼払はんなどと書裁《しよさい》なしたる所もあり、斯《かく》なして尚《なほ》貧民等は市街を横行なせる事は日を追つて熾《さかん》なりしが、其頃品川宿に於て施行《せぎよう》を出すを左右《かにかく》と拒みたる者ありとて忽ち其家を打毀《うちこは》せしより人気いよいよ荒立《あらだつ》て、渋りて物を出さぬ家は会釈もなく踏込で或は鋪《みせ》をうち毀し家内を乱暴に及ぶにぞ、蓄財家《かねもち》は皆|戦慄《ふるへおそれ》て家業を休み店を閉めて只乱暴の防ぎをなせば、貧窮人のみ勢ひを得て道路に立ちて威を震《ふる》ひしは実に未曾有の珍事なりけり……さる程に貧民の暴動かくの如くなれば、庄内侯の巡邏方《まはりかた》且つ町奉行の手を以て其の発頭人なる者を追々捕縛なしたりしかど、もとこれ、米価の沸騰より飢餓に逼《せま》るに耐へかねて、かかる挙動に及べるなれば、兎《と》に角《かく》是等を救助せずして静まるべきの筋にあらずとて、先づ救民小屋|造立《つくりたて》の間、本所|回向院《えこういん》、谷中《やなか》天王寺、音羽《おとは》護国寺、三田《みた》功運寺、渋谷渋谷寺の五ケ寺に於て炊出《たきだ》しを命ぜられ普く貧民に之を与へ、其うち神田佐久間町の広場に小屋を設けられて至極の貧人を救助せしかば、是にて府下の騒擾も稍《やや》鎮静に及びたり」
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 幸いにしてこの貧窮組は、それだけの騒ぎで鎮まりました。大塩平八郎も出ないし、レニン、トロツキーも出ないで納まりました。たまたま道庵先生あたりが飛び出して、お茶番を差加えたようなことで、ともかくも納まったのは国家のために大慶至極と申すべきです。
 表面、この騒ぎは納まったけれども、それの根本が絶たれたというわけではありません。一時は震え上った富豪たちが、あわてふためいて貧民の御機嫌を取ってみたけれど、表面の暴動が過ぎ去ってしまえば、あとはケロリとして忘れたもののように、書画骨董にばかげた金を出したり、ふざけきった集まりをして見せたり、無用の建築をして見せたり、そんなことで以前よりは一層の太平楽《たいへいらく》を、露骨に見せるようになったのは困ったものであります。
 それと共に、一時の雷同に出でないで、心ひそかにこの世の有様を観察し、或いは憤慨している者がようやく多くなってゆきました。

 本町一丁目の自身番へ、眼の色を変えて飛び込んだのは、いつもそそっかしい下駄屋の親爺《おやじ》であります。
「大変だ!」
と言ってその親爺は息を切りました。この男のそそっかしいのは今に始まったことではないけれど、今日は眼の色が変ってるだけに、それから貧窮組の騒ぎが納まって間もない時であるだけに、そこに集まる親爺連の胸を騒がせて、
「どうなすった」
 種彦《たねひこ》の合巻物《ごうかんもの》を読んでいた親爺も、碁と将棋をちゃんぽんにやっていた親爺も、それの岡目をしていた親爺も、昼寝をしていた親爺も、そこに集まる親爺という親爺が、みんな下駄屋の親爺の大変だという一声で驚かされました。
 一体、ここへ集まる親爺連は、かなりいい気なものでありました。外は往来の劇《はげ》しい本町の真中で、内は閑々たる別天地、半鐘がジャンと打《ぶっ》つからない限りは他人の来る気遣《きづか》いはないところで、これらの親爺連の心配になることは、夕飯を蕎麦《そば》にしようか、それとも鰻飯《うなぎめし》とまで奮発しようかというような心配でありました。鰻のついでに酒の隠れ呑みもしなければならないというような心配でありました。その閑々たる空気を、下駄屋の親爺が破って言うことには、
「外へ出てごらんなさい、大変な物だ、そこの雨樋筒《あまひづつ》に生首が一ツ
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