せんでした。鰡八に反抗したということだけでは、決して罪になるものではありません。ただその反抗の手段が、いささか常軌を逸しただけに、その筋でも、どうも見逃し難くなったものと見なければなりません。
道庵先生の隣に鰡八大尽の妾宅があることは、廻り合せとは言いながら、どうしても一種の皮肉な社会現象であると見なければなりません。それで道庵が兄哥連《あにいれん》を狩催《かりもよお》して馬鹿囃子《ばかばやし》をはじめると、大尽の方では絶世の美人を集めたり、朝鮮の芝居を打ったりして人気を取るのであります。
しかしながら道庵の方は、何を言うにも十八文の貧乏医者であります。鰡八の方は、ほとんど無限の金力を持っているのだから、ややもすれば圧倒され気味であることは、道庵にとって非常に同情をせねばならぬことであります。
また一方では、大尽のお附の者共が、盛んに手を廻して、道庵のあたり近所の家屋敷を買いつぶすのであります。そうしてそれをドシドシ庭にしたり、御殿にしたりして、今は道庵の屋敷は三方からその土木の建築に取囲まれて、昼なお暗き有様となってしまいました。
このごろでは、道庵は毎日毎日屋根の櫓《やぐら》の上へ上って、その有様を見て腹を立っていました。そのうちにも何かしかるべき方案を考えて、朝鮮芝居以来の鬱憤を晴らしてやろうと、寝た間もそれを忘れることではありませんでした。
勝ち誇った鰡八側では、これであの貧乏医者を凹《へこ》ましたと思って、一同が溜飲を下げて当り祝などをして、その後は暫らく表立った張り合いがありませんでした。鰡八の方はそれで道庵が全く閉口したものと思い、事実において敵が降参してしまった以上は、それを追究がましいことをするのは大人気《おとなげ》ないと思ってそのままにし、近所へは甘酒だの餅だのをたくさんに配り物をしましたから、さすがは大尽だといって、住宅を買いつぶされた人たちも、あまり悪い心持をしませんでした。すべてにおいて大尽側のすることは、人気を取るのが上手でありました。
焉《いずく》んぞ知らん。この間にあって道庵先生は臥薪嘗胆《がしんしょうたん》の思いをして、復讐の苦心をしていたのであります。
夜な夜な例の櫓《やぐら》へ上っては、ひそかに天文を考え、地の理を吟味して、再挙の計画が、おさおさ怠りがありませんでした。
それとは知らず鰡八大尽《ぼらはちだいじん》のこの御殿の上で、ある日、多くの来客がありました。この来客は決して前のような道庵をあてつけの会でもなんでもなく、ドチラかといえば今までの会合よりは、ずっと品もよく、珍らしくしめやかな会合でありました。
そこへ集まった者はみな名うての大尽連で、今日は主人が新たに手に入れた書画と茶器との拝見を兼ねての集まりでありました。やはり例の通り高楼をあけ放していたから、道庵の庭からは来客のすべての面《かお》までが見えるのであります。なにげなく庭へ出て薬草を乾していた道庵が、この体《てい》を見ると、
「占めた!」
薬草を抛《ほう》り出して飛び上り、
「国公、ならず者をみんな呼び集めて来い」
と命令しました。
ほどなく道庵の許へ集まったのは、ならず者ではなく、この近所に住んでいる道庵の子分連中で、それぞれ相当の職にありついている人々であります。
主人側では新たに手に入れた名物の自慢をし、来客側ではそれに批評を試みたりなどして鰡八御殿の上では、興がようやく酣《たけな》わになろうとする時に、隣家の道庵先生の屋敷の屋根上が遽《にわ》かに物騒がしくなりました。
主客一同が何事かと思って屋根の上を見た時分に、いつのまに用意しておいたものか、例の馬鹿囃子以来の櫓の上に、夥《おびただ》しい水鉄砲が筒口を揃えて、一様にこの御殿の座敷の上へ向けられてありました。
「これは」
と鰡八大尽の主客の面々が驚き呆《あき》れているところへ、櫓の上では、道庵が大将気取りでハタキを揮《ふる》って、
「ソーレ、うて、たちうちの構え!」
と号令を下しました。
その号令の下に、道庵の子分たちは、勢い込んで一斉射撃をはじめました。これは予《かね》て充分の用意がしてあったものと見えて、前列が一斉射撃をはじめると、手桶に水を汲んで井戸から梯子《はしご》、梯子から屋根と隙間もなく後部輸送がつづきました。これがために前列の水鉄砲は、更に弾丸の不足を感ずるということがなく、思い切って射撃をつづけることができました。水はさながら吐竜《とりゅう》の如き勢いで、鰡八御殿の広間の上へ走るのであります。
これは実に意外の狼藉《ろうぜき》でありました。せっかく極めて上品に集まった品評の会が、頭からこうして水をぶっかけられてしまいましたから、主客の狼狽は譬《たと》うるに物がないのであります。ズブ濡れになって畳の上を、辷《すべ》ったり泳いだりしました。驚きは大きいけれども、水のことだから、濡れるだけで別段に怪我はないはずであったけれども、あまりに驚いてしまったものだから、なかには腰を抜かして畳の上の同じところを、幾度も幾度も辷ったり泳いだりしているものもありました。水が胸板《むないた》へ当ったのを、ほんとうに実弾射撃で胸をうち抜かれたと思って、グンニャリしてしまったものもありました。
こうして命|辛々《からがら》で辷ったり泳いだりしているくらいだから、さしも自慢にしていた名物の書画も骨董《こっとう》も顧みる暇はなく、思う存分に水をかけられて転《ころ》がり廻ってしまいます。
この体《てい》を見た道庵先生は、躍り上って悦びました。
「者共でかした、この図を抜かさずうてや、うて、うて」
盛んにハタキを振り廻して号令を下すものだから、道庵の子分の者共はいよいよ面白がって、水鉄砲を弾《はじ》き立てました。弾薬に不足はなかったけれど、そのうちに鰡八の方では、雇人たちがそうでになって雨戸をバタバタと締めきり(なかには、あわてて雨戸と雨戸の間へ首を挟まれる者もあったり)、それで道庵軍は充分に勝ち誇って水鉄砲を納めることになりました。
この時の道庵の勢いというものは、傍へも寄りつけないほどの勢いでありました。すっかり凱旋将軍の気取りになってしまって、
「謀《はかりごと》は密なるを貴《たっと》ぶとはこのことだ、孔明や楠だからといって、なにもそんなに他人がましくするには及ばねえ、さあ、ならず者、これから大いに師を犒《ねぎら》ってやるから庭へ下りろ」
と言って自分が先に立って軍を引上げて、鰯《いわし》の干物やなにかで盛んに子分たちに飲ませました。
子分たちもまた、親分の計略が奇功を奏したのは自分たちの手柄も同じであるといって、盛んに飲みはじめました。道庵は、かねての鬱憤を晴らしたものだから、嬉しくて嬉しくてたまらないで、一緒になって飲み且つ踊っていると、そこへその筋の役人が出張し、グデングデンになっている道庵を引張って役所へ連れて行ってしまいます。
さすがに大尽家でも、このたびの無茶な狼藉《ろうぜき》に堪忍《かんにん》がなり難く、その筋へ訴え出たものと見えます。
それがために道庵は、役所へ引張られて一応吟味の上が、手錠三十日間というお灸になったのは、自業自得《じごうじとく》とはいえかわいそうなことであります。
手錠三十日は、大した重い刑罰ではありませんでした。道庵はこのごろ鰡八を相手に騒いでいるけれども、大した悪人でないことはその筋でもよくわかっているのであります。悪人でないのみならず、道庵式の一種の人物であることもよくわかっているから、お役人も、またかという心持でいました。しかし訴えられてみるとそのままにもなりませんから、道庵をつかまえて来て、ウンと叱り飛ばし、手錠三十日の言渡しをして町内預けです。
それで道庵は、手錠をはめられて自分の屋敷へ帰っては来たけれど、その時は祝い酒が利《き》き過ぎてグデングデンになって帰ると早々、手錠をはめられたままで寝込んでしまいました。眼が醒めた時分に起き直ろうとして、はじめて自分の手に錠がはめられてあったことに気がつき、最初は、
「誰がこんな悪戯《いたずら》をしやがった」
と訝《いぶか》りましたが、直ぐにそれと考えついて、
「こいつは堪《たま》らねえ」
と叫びました。しかし、それでもまだ何だかよく呑込めていないらしく、役所へ引張られたことは朧《おぼろ》げに覚えているけれども、叱り飛ばされたことなんぞはまるっきり忘れてしまっていました。男衆の国公から委細のことを聞いて、はじめてなるほどと思い、いまさら恨めしげにその手錠をながめていました。
ここにまた、道庵先生の手錠について不利益なことが一つありました。手錠といったところで、大抵の場合においては、ソッと附届けをしてユルイ手錠をはめてもらって、家へ帰れば、自由に抜き差しのできるようになっているのが通例でありました。遊びに出たい時は、手錠を抜いておいて自由に遊びに出ることができ、お呼出しとか、お手先が尋ねて来たとかいう時に、手錠をはめて見せればよかったものを、先生は酔っていたために、ついその手続をすることがなく、役所でもまた何のいたずらか先生の手に、あたりまえの固い手錠をはめて帰したから、極めて融通の利かないものになっていました。
そこへ五人組の者が訪ねて来て驚きました。例によってお役人にソッと頼んで、緩《ゆる》い手錠に取替えてもらうように運動をしようとすると、本人の道庵先生が頑《がん》として頭を振って、
「俺ゃ、そんなことは大嫌いだ、そんなおべっか[#「おべっか」に傍点]は、おれの性《しょう》に合わねえ、これで構わねえからほうっておいてくれ」
と主張します。そんなことを言って正直に三十日間手錠を守っているということは、ばかばかしいにも程のあったことだけれど、酔っている上に、頑固を言い出すと際限のない先生のことだから、それではと言ってひとまずそのままにしておくことにしました。
道庵はこうして、ツマらない意地を張って手錠をはめられたままでいるが、その不自由なことは譬うるに物がないのであります。
こんなことなら、五人組の言うことを素直に聞いておけばよかったと、内心には悔みながら、それでも人から慰められると、大不平で意地を張って、ナニこのくらいのことが何であるものかと気焔を吐いてごまかしています。
そうして意地を張りながら、酒を飲むことから飯を食うことに至るまで、いちいち国公の世話になる億劫《おっくう》さは容易なものではありません。当人も困るし、病家先の者はなお困っていました。
二日たち三日たつ間に道庵も少しは慣れてきて、相変らず手錠のままで酒を飲ませてもらい、その勢いでしきりに鰡八の悪口を並べていました。
この最中に、道庵の許《もと》へ珍客が一人、飄然《ひょうぜん》としてやって来ました。珍客とは誰ぞ、宇治山田の米友であります。
この場合に米友が、道庵先生のところへ姿を現わしたのは、その時を得たものかどうかわかりません。
しかし、訪ねて来たものはどうも仕方がないのであります。本来ならば、与八と一緒に訪ねて来る約束になっていたのが、一人でさきがけをして来たものらしくあります。
「こんにちは」
米友は、きまりが悪そうに先生の前へ坐りました。この男は片足が悪いから、跪《かしこ》まろうとしてもうまい具合には跪まれないから、胡坐《あぐら》と跪まるのを折衷したような非常に窮屈な坐り方です。
「やあ、妙な奴が来やがった」
道庵先生もまた、手錠のまま甚だ窮屈な形で、米友を頭ごなしに睨《にら》みつけました。
「先生、どうも御無沙汰をしちゃった」
感心なことに米友は、木綿でこそあれ仕立下ろしの袂《たもと》のついた着物を着ていました。これは与八の好意に出でたものでありましょう。
ここで道庵と米友との一別来の問答がありました。道庵は道庵らしく問い、米友は米友らしく答え、かなり珍妙な問答がとりかわされたけれど、わりあいに無事でありました。
「友公、実はおれもひどい目に逢ってしまったよ」
道庵が最後に、道庵らしくもない弱音を吐くので、米友はそれを不思
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