を以てしても断ち切ることのできない鎖も、錠前を以てすれば、軽々と外すことができるのであります。
「それ!」
 長太が外した鎖をガチャリと投げ出した途端に、ムク犬が山の崩れるように吠え出しました。
「失敗《しま》った!」
 細引を手に持っている長吉が、絶望に近い叫びを立てました。
「失敗った!」
 長吉が絶望的の叫びを為した時に、ズルズルとその手に持っていた細引に引摺られて行きます。
「こいつは堪《たま》らねえ」
 長太は狼狽して、長吉の引摺られて行く細引にとりつきました。
 これは本当に思い設けぬ大変でありました。鎖を外した瞬間に、聡明なるムク犬は全身の力を集めて前へ飛び出しました。縄は松ケ枝から幹をズルズルと辷《すべ》って、それを結び直す隙を与えませんでした。縄にすがりついた長吉は、これも全身の力を注いで引き留めようとしたけれど、力に余ってズルズルと引摺られた上に横倒しになりました。それに力を合せようと周章《あわ》てた長太ももろともに引摺られて横倒しになりました。
 前へ飛び出したムク犬の首には、二人のとりすがっている麻縄と、前から繋いであったそれと、たったいま解かれた鉄の鎖とがくっついています。
 麻の縄にとりすがる長吉、長太の二人と鉄の鎖とを引摺って、ムク犬は、口の裂けるような叫びと唸りとを立てました。
「スワ!」
と、広間と縁側とに集まってこの場の体《てい》を見物していた武士たちも、この時に思わずどよめきました。
 いったん、麻縄にとりついて横倒しになった長太は直ぐに起き上りました。長吉はなお必死とその縄にすがりついて引摺られて行きました。起き上った長太は、そこへ並べてあった棍棒《こんぼう》を取り上げて、ムク犬の前に迫り、
「こん畜生!」
 長太はその棍棒を振りかざして、無二無三にムク犬に打ってかかる。長吉は、なお一生懸命に縄にとりついている。縄にとりついている長吉を引摺りながら、前から棒で打ってかかった長太に向って、烈しき怒りと共に、ムク犬は嚇《かっ》と大口をあきました。
「畜生、畜生、畜生」
 たしかにやり損った長太は、夢中になって棍棒を振り上げて、ムク犬を滅多打《めったう》ちに打ちかかりました。けれどもその棒はムク犬の急所に当ることがなく、滅多打ちにのぼせている長太の咽喉の横から、ガブリとムク犬がその巨口を一つ当てましたから、
「呀《あっ》!」
 長太は棒を投げ出して仰向けに倒れる時に、ムク犬は、倒れた長太の身体を乗り越えて前へ出ました。縄にすがっていた長吉は、手球《てだま》のようにそれについて引摺られる。
「長太、どうした」
「長吉、放すな」
 長太はいよいよ血迷って、噛まれて倒れながらムク犬の身体を抱きました。長吉が引摺られながらも縄を放さないで苦しがっているのも、長太が半死半生になりつつも、このさい猛犬の身体に噛《かじ》りつこうとするのも、もう周章狼狽の極でありますけれど、一つには彼等はこうして身を以てしても、猛犬を引留めなければならないのであります。
 自分たちの手抜かりから猛獣の絆《きずな》を絶ってしまったことは、申しわけのない失敗だけれど、それよりもこの死物狂いの猛犬が、あのお歴々のおいでになるところへ飛び込みでもしようものならば、なんともかとも言い難き椿事《ちんじ》を引起すのであります。
 だから彼等としても、周章狼狽の極にありながら、身が粉《こ》になるまでも、その責任に当らねばならぬ自覚に動かされないわけにはゆきません。けれどもそれは無益でありました。抱きついた長太はひとたまりもなく振り飛ばされ、引摺られた長吉は二三間跳ね飛ばされました。
 事態穏かならずと見て取った見物の武士たちは総立ちです。
 さすがに女子供ではなかったから、犬が狂い出したというて、逃げ迷うものはありませんでしたけれど、事の態《てい》に安からずと思って立ち上りました。
 二人の犬殺しを振り飛ばしたムク犬は、一散に走ろうとして――その逃げ場を見廻したもののようでしたけれど、いずれの口も固められて、逃れ出でんとするところのないのを見て、烈しい唸り声と共に両足を揃えて、暫らく立っていました。
「こん畜生!」
 二人の犬殺しは、いよいよ血迷うて、手に手に腰に差していた大きな犬鎌を抜いて打振り廻して、噛まれた創《きず》や摺創《すりきず》で血塗《ちまみ》れになりつつ、当途《あてど》もなく犬鎌を振り廻して騒ぎ立つ有様は、犬よりも人の方が狂い出したようであります。
 この時、神尾主膳は――よせばよかったのですけれども、来客の手前と、例の通り酒気を帯びていたのだから嚇《かっ》と怒って、真先に自分が長押《なげし》から九尺柄の槍を押取《おっと》りました。自身、手を下すまでのこともなかろうに、憤怒《ふんぬ》のあまり、神尾主膳は九尺柄の槍の鞘を払うと共に、縁の上からヒラリと庭へ飛び下りましたから、
「神尾殿、お危のうござる」
 皆が留めたけれども、主膳は留まりませんでした。りゅうりゅうとその槍をしごいて、いま身震いして立ち迷うているムク犬の前に、風を切ってその槍を突き出しました。
 神尾主膳といえども武術には、また一通りの手腕のあるものであります。怒りに乗じて突き出す槍が、かなり鋭いものであることは申すまでもありません。
 ムク犬は後ろへ退《しさ》ってその槍の鉾先《ほこさき》を避けました。勢い込んだ神尾主膳は、逃《のが》さじとそれを突っかけます。
 酒の勢いを仮《か》る主膳の勇気は、一座のお客を歎賞せしめるより、寧《むし》ろその無謀に驚かせました。しかし、主人がこうして出たのに、客も黙って引込んではいられないのであります。ぜひなく刀を押取って主膳の後ろ、或いはその左右から応援に出かけました。錆槍《さびやり》を借りて横合より突っかける者もありました。
 ムクが主膳の槍先を避けたのは、或いはこの家の主人に遠慮をして避けたのかも知れません。好んで人に喰いつくものでないことを示すために、最初しかるべき逃げ場を求めていたのかも知れません。しかし、こうなってみてはムクとして、自分の生存のためにも立って戦わなければなりません。その相手の武士であると犬殺しであるとに論なく、牙《きば》に当る限りは噛み散らし、顋《あご》に触るる限りは噛み砕いても、この場を逃れるよりほかはないのであります。
 いま猛然と突き出した神尾主膳の槍を、ムク犬はスウッと潜《くぐ》りました。その首には前のように鉄の鎖と麻縄とをひいたままで、槍の上からムク犬は、一足飛びに神尾主膳の頭の上まで飛びました。
「小癪《こしゃく》な!」
 主膳は槍を手許につめて、身を沈ませて上から飛びかかるムク犬を、下から突き立てようとしました。その隙《すき》を与えることなく、ムク犬はガブリと神尾主膳の左の肩先へ食いつきました。
「呀《あ》ッ」
 神尾は槍を持ったまま後ろへ倒れるのを、それッと言って応援の者が、ムク犬に槍を突っかけました。ムクは転じてその槍をまた乗り越えました。ムク犬は単に勇猛なる犬であったのみならず、女軽業の一座に仕込まれたために、比類なき身の軽さを持っていました。そうしてヒラリ、ヒラリと人の頭の上を飛ぶことは、多くの敵手を悩ますことにおいて有利な戦法であります。
 それより以後におけるムク犬の荒《あば》れ方は、縦横無尽というものであります。
 武士と言わず犬殺しと言わず、その人の頭を飛び越して、ついに座敷の中へ乱入してしまいました。乱入したのではなく、ムクとしては、やはりその逃げ場を求むるために、心ならずも人間の住む畳の上まで上ってしまったものであります。
 家の中へ犬を追い入れた時は、たしかに犬にとってはいよいよ有利で、人間にとってはなかなか不利益でありました。単身にして身の軽い犬は、間毎間毎を飛び廻るのに自由であります。
 槍を持ったり、刀を持ったり、棒を持ったりして追い廻す人間は、家の中に於ての働きが不自由です。あっちへ行った、こっちへ来た、それ裏へ出た、表へ廻った、縁の下へ潜《もぐ》った、物置へ隠れたと言って騒いでいるうちに、そのいずれの口から逃げ去ったか知れないが、屋敷の中の湧き返るような騒ぎを後にして、ムク犬の姿は、この屋敷のいずれかの場所からか逃げ出してしまったものであります。
 山へ逃げた、林へ隠れた、畑にいたと、家の中の騒ぎが外へ出た時分には、ムク犬はそのいずれの場所にもいませんでした。この催しのためにはさんざんの失敗であったけれども、ムク犬のためには意外の救いが偶然のように起り、少なくともこの場所で、残忍な試験に供せらるるだけの憂目《うきめ》は免れることを得て、いずれへか逃げ去りました。しかし、こうなってみると、これから後、どこまでムク犬が逃げ了《おお》せられるかどうかは疑問であります。武家屋敷の召使や附近の百姓らは総出で、狂犬のあとを追うべく、山や、林や、畑から、巻狩《まきがり》のような陣立てをととのえたのは、それから長い後のことではありませんでした。
 左の肩先を犬に噛まれた神尾主膳は――一時それがために倒れて気絶したように見えました。駈け寄って介抱したもののために、直ぐに正気はつきましたけれど、それがために主膳の怒りは頂上に達し、
「憎い非人ども!」
 威丈高《いたけだか》になって、今しも、ムク犬を追って、外へ出ようとする犬殺しを呼び留めました。
「へいへい」
 そこへへたへたと跪《かしこ》まる犬殺しどもに、
「貴様たちは言語道断《ごんごどうだん》の奴等だ、このザマは何事だ」
「誠に申しわけがござりませぬ、温和《おとな》しそうな犬でございましたから、決してこんなことはなかろうと思いまして」
「黙れ! 馬鹿者」
 主膳は肩先に療治を受けて布を捲いてもらいながら、そのにえたつような憤懣《ふんまん》を、犬殺しどもの頭から浴びせかけました。犬殺しどもは恐れ入って顔の色はありません。
「もとはと言えば貴様たちの未熟だ、犬にも劣った畜生め、どうしてくりょう」
 神尾主膳の眼にキラキラと黄色い色が見えたかと思うと、矢庭《やにわ》にその突いていた槍を取り直し、
「馬鹿め!」
 恐れ入っていた長太を覘《ねら》って、胸許《むなもと》からグサとその槍を突き通しました。
「あっ! 殿様!」
 長太は、のたうち廻って苦しみました。その手には胸許を突き貫《ぬ》かれた槍の柄をしかと握り、
「殿様、あんまり……そりゃ」
と言って、あとは言えないで七転八倒の苦しみであります。
「殿様、そりゃ、あんまりお情けのうございます」
 長太の言えないところを長吉が引取って、眼の色を変え犬鎌を持って立ち上るところを、
「汝《おの》れも!」
と言って、長太の胸から抜いた槍で、また長吉の胸をグサと一突き。

 神尾の下屋敷から脱することを得たムク犬は、山へも逃げず、里へも逃げず、首に鎖と縄を引張ったまま只走《ひたばし》りに走って、塩山《えんざん》の恵林寺《えりんじ》の前へ来ると、直ぐにその門内へ飛び込んでしまいました。山へも里へも入らなかったこの犬が、何の心あって寺へ入ったか、犬の心持を知ることはできません。
 街道でも門外でも騒いだように、恵林寺の門内へこの珍客が案内もなく飛び込んだ時には、一山の大衆を騒がせました。
「ソレ狂犬《やまいぬ》だ!」
 庭を掃いていた坊主は、箒を振り上げました。味噌をすっていた納所《なっしょ》は、摺古木《すりこぎ》を担ぎ出しました。そのほかいろいろの得物《えもの》を持って、このすさまじい風来犬《ふうらいいぬ》を追い立てました。門外へ追い出そうとしてかえって、方丈へ追い込んでしまいます。
 一山の大衆は、面白半分にこの犬を追廻すのであります。追われるムク犬は、敢《あえ》てそれに向おうともしない。寧ろ哀れみを乞うようにして逃げるのを、大衆は盛んに追いかけて、あっちへ行った、こっちへ来たと騒ぎ立っています。
 例の慢心和尚はこの時、点心《てんじん》でありました。膳に向って糊《のり》のようなお粥《かゆ》のようなものを一心に食べていました。その食事の鼻先へ、ムク犬が呻《あえ》ぎ呻ぎ逃げ込ん
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