ても議論の尽きよう道理はござらぬ、なんとそれをひとつ、実地に験《ため》して御覧あってはいかがでござるな」
 こう言い出すと、一座はなるほどと思いました。なるほどとは思ったけれど、
「実地に験してみると言ったところで……」
 それはなかなか容易な実験ではありません。やはり空想にひとしいものだとあきらめているらしいが、神尾だけは何かの当りがあると覚しく、
「幸い、拙者がその実験に恰好《かっこう》な犬を一頭所持致しておる、その犬は精力あくまで強く、打ち殺しても死なぬ犬じゃ、時によっては十日や二十日食わずとも意気の衰えぬ猛犬である、その犬をおのおの方に試験として提供致そう、ひとつ生皮《いきがわ》を剥がして御覧あってはいかがでござる」
「それは近頃の慰み……」
と言うものもありました。よけいなことと眉を顰《ひそ》めるものもありました。言い出した神尾がかえって乗気になって、
「そうじゃ、近いうちおのおの方はじめ有志のお方に、躑躅ケ崎の拙者屋敷へお集まりを願おう、その庭前《にわさき》において右の犬を験《ため》させて御覧に入れたい、これも一つの学問じゃ」
 神尾が進んでその実験を主唱して、それがために日を期して躑躅ケ崎の神尾の屋敷へ、多くの人が招かれることになりました。その集まりの目的は、前に言う通りの残忍なる遊戯のためであります。その残忍なる遊戯に使用さるべき動物は、すなわちムク犬であって、それの遊戯を実行するのは、巨摩郡《こまごおり》から雇われた長吉、長太という二人の犬殺しの名人であって、それを見物するのが主催者の神尾主膳をはじめ、勤番の上下にわたる有志の者であります。
 二人の犬殺しは、その前日来、しきりに犬を手慣らすことに骨を折りました。最初の時にガリガリと棒を噛み砕いただけで、その後は、やはり眠そうにしているばかりで、別に二人の犬殺しに反抗する模様も見えませんでした。それで犬殺しは安心したけれども、なお気に入らないことは、いくら食物を与えてもこの犬が、それを欲しがらないことであります。
 いろいろにして食物を欲しがるように仕向けたけれど、これだけはついに成功しないで、その試験の当日になりました。
 犬殺しどもにもまた大きな責任があります。その皮を剥《む》き損ずるか、剥き了《おお》せるかによって議論も定まるし、自分たちの腕も定まるのでありました。二人が同時に刀《とう》を揮《ふる》って、出来得る限りの巧妙と迅速とを尽して、生きながら犬の皮をクルクルと剥いてしまって、それでなお、いくらかの生命を保たせ得るかどうかというのがその試験の眼目であります。
 むつかしいのは皮を剥くそのことでなく、皮を剥くまでの間、生きた犬をどうしてじっとさせて置くかでありました。二人の犬殺しの苦心もまたそこにあって、いろいろに犬を手懐《てなず》けようとしたのもそれがためでありました。しかし、見込み通り二人の犬殺しに懐《なつ》くかどうかは、犬を扱い慣れたこの犬殺しどもにもまだ自信がありません。与える食物は取らないけれど、その温順であるらしいことが、いくらかの心恃《こころだの》みにはなっていただけであります。こうして首へ縄をかけて松の枝へつるし、四本の足へも縄をつけて四方へ張っておいて、身動きのできないようにしておいて、それから仕事にかかるというのが順序であって、それはほぼ見当がついているのであります。
 神尾の招いた多くの人は、その当日の定刻に続々と詰めかけて来ました。広間の中や縁のあたりに居溢《いこぼ》れて、みんなの眼は松の木の下の真黒い動物に注《そそ》がれています。なかには立って行って、わざわざその動物の委細を検分しているものもありました。
「ありゃ、元の支配の邸にいた犬ではござらぬか」
「うむ」
 こう言ってムク犬を評していたものもありましたけれど、元の支配ということだけすらが、この席では禁句でもあるかのように、
「うむ」
と言って噛み殺すように頷《うなず》いたばかりで、駒井とか能登守とも言うものはありませんでした。ましてお君とか米友とかいうものの名は、誰の口にも上るではありません。
 ここで験《ため》し物《もの》になるべき犬に対しても、多少の同情を持ったものがこのなかに無いとは申されません。しかし、集まっているものはみな武士《さむらい》でありました。切捨御免を許されている武士たちでありました。これらの人は時としては人命をも刀の試しに供して、それをあたりまえだと信じている人であり、また時としては左様な残忍な行いもしてみなければ、武士の胆力が据《すわ》らぬと考えているようなものもありましたから、日頃は善良と言われている人でも、残忍な遊戯の前に目をつぶらないことが武士の嗜《たしな》みの一つだと考えもし、人にも奨励するような習慣もある。いわんや生きた人命でなく、たかが一疋の犬だもの。
 こうして遊戯の選手に当るべき犬殺しの来るのを待っている間に、例の長吉、長太の犬殺しが、犬潜《いぬくぐ》りから入って来ました。
 生きながら皮を剥かれてその動物が、なお生きて動けるかどうかというような議論の、非常識であることは申すまでもありません。それを実行せしめようとする神尾主膳らの心持もまた、人間並みの沙汰《さた》ではありません。それを引受けた犬殺しは、商売だから論外に置くとしても、彼等はそれを引受けて、見事やり了《おお》せるつもりで出て来たのか知らん。やり了せても、やり損っても、武士《さむらい》たちの高圧でぜひなくこんな仕事を引受けたものに相違ないのであります。
 それだから彼等には、皮を剥いて、それが生きていようとも死んでしまおうとも、それには責任がなくて、ただ剥ぎぶりの手際の鮮やかなところを御覧に入れさえすれば、義務が済むものと心得ているらしい。
 犬殺しが入って来たのを見ると、主人役の神尾主膳を初めとして、見物の人は緊張しました。犬殺しは遠くの方から、怖る怖る地上へ膝行《しっこう》して集まった人たちを仰ぎ見ることをしないで、犬の方へばかり近寄って行きました。
 さきほどからの物々しい光景を見ていたムク犬は、今日は、いつものように眠そうな眼が、ようやく冴《さ》えてきたようであります。首を立てて集まっている武士たちを、深い眼つきで見つめておりました。
 その有様は、何か事あるのを悟って、いささか用意するところあるもののようにも見えます。
 さて、犬殺しが犬潜りから入って来た時分に、ムク犬の眼が爛《らん》としてかがやきました。
 やや離れたところへ着いた犬殺しは、二人ともに籠《かご》をそこへ下ろして、籠の中から大きな鎌を取り出してまず腰にさし、それから筵《むしろ》を敷いてその上へ尻を卸し、次に籠の中からいろいろの道具を取り出して、道具調べにかかりました。その道具というのは、一束の細引と、鉄製の環《かん》と、大小幾通りの庖丁《ほうちょう》と、小刀と、小さな鋸《のこぎり》などの類《たぐい》であります。
「長太、どうもあの鉄の鎖が邪魔になって仕方がねえな」
 長吉は犬を見ながらこう言って長太を顧みると、長太はもっともという面《かお》をして、
「そうだ、あの鎖を外《はず》してかからなけりゃあ思うようにはやれねえ」
 二人は今に至っても、まだムク犬の首に捲きつけられた二重三重の鉄の鎖を問題にしているのであります。実際、あの鎖があっては、皮を剥きにかかる時に、どのくらい邪魔になるかということは、素人目《しろうとめ》にも想像されることです。
「だからおれは、あいつを外してしまって、その代りにこの環《かん》を首へはめて、細引で松の枝へ吊《つる》しておいて仕事にかかりてえと思うのだ」
「けれども、あのくらいの犬だから、細引じゃあむずかしかろうと思われるぜ」
「ナーニ、大丈夫だ、こいつを二重にして引括《ひっくく》れば何のことはあるものか」
「じゃあ、そういうことにしよう、いちばん先に口環《くちわ》をはめるんだな、口環を」
 用意して来た革製の口環を取って二人が、やがてムク犬の方へ近寄りますと、今まで伏していたムク犬がこの時に立ち上りました。
「やい畜生、温順《おとな》しく往生しろよ」
 二人の犬殺しは尋常の犬殺しにかかるつもりで、左右から歩み寄って、一人は例の握飯《むすび》を投げて、一人は投網《とあみ》を構えるように口環を拡げて、
「それ、こん畜生、口をこっちへ出せ」
 呼吸を計って両方から、ムク犬を伸伏《のっぷ》せるようにして口環をはめようとすると、ムク犬は猛然としてその痩《や》せた身体を左右に振りました。
「危ねえ、こん畜生」
 二人の犬殺しはその勢いに狼狽したが、
「こいつはいけねえ、どうしても首を松の木へ吊り下げておいてからでねえと」
 二人の犬殺しは、手際よく口環をはめてしまうつもりであったところが意外の手強《てごわ》さに、やや当《あて》が外れて、まずどうしても松の枝へ縄をかけて、首を或る程度まで締め上げておいてから、仕事にかからねばならぬと覚《さと》りました。
 麻縄の細引へ輪をこしらえ、それをムク犬の首へ投げかけること、それは近寄って口環をはめることよりも遥かに容易《たやす》い仕事でもあり、充分の熟練を持っておりました。
 難なくムク犬の首を麻縄で括《くく》って、それを松の枝へ引き通して、悠々と引き上げにかかりました。けれども、不幸にして、最初から捲いてあった二重三重の鉄の鎖が取れていないのだから、ある程度までしか引き上げることはできません。
 彼等の目的は、こうして首をしめてしまわない程度において、後足で直立するほどに犬の首を引き上げて、前へ廻って腹を見られるくらいにして置いて、仕事にかかろうというのであります。
 すでに首へ縄を捲きつけて、その縄を松の枝から通してしまった以上は、さながらムク犬の身体は起重機にかけられたと同じことであります。若干の力で縄の一端を引張りさえすれば、ムク犬は腹を前にして、前足を宙に上げるような仕掛けにされてしまいました。
 ただ例の鎖が捲きつけてあるがために、ある程度より上へは浮かないから、折角捲きつけた首の縄も、ムク犬には更に苦痛を覚えないのであります。だから、次の仕事はどうしても、その鉄の鎖を取外すことでなければなりません。
「なかなか大した鎖だ、合鍵がお借り申してあるから、これで錠前を外すがいい、それ、細引はよく松の樹へ捲きつけておかねえと、鎖を外す拍子に、縄がゆるむと間違えが出来るだ」
 周到な用心と警戒の下に、鎖を外しにかかりました。
 この前後の間におけるムク犬の身体には、更に隙《すき》がありませんでした。四つの足は合掌枠《がっしょうわく》のように剛《つよ》く突っ張って、その眼は間断なく犬殺しどもの挙動を見廻して、その口からようやく唸《うな》りを立てはじめていました。痩せた身体がブルブルと身震いをはじめました。
 広間と縁側とで見物していた武士の連中は、固唾《かたず》を呑みはじめました。犬殺しは、日頃の技倆を手際よく見せようという心であります。武士たちは、前代にもあまり例《ためし》の少ない生きたものの皮剥ぎを、興味を以て見物しようというのであります。ほいと[#「ほいと」に傍点]非人の階級は、頼まれれば生きた人間の磔刑《はりつけ》をさえ請負《うけお》うのであるから、犬なんぞは朝飯前のものであります。また武士たちとても、同じ人間を斬捨てることを商売にしていた時代もあるのだから、たかが生きた犬の皮剥ぎを実地に御覧になるということも、そんなに良心には牴触《ていしょく》しないで、かえって残忍性の快楽をそそるくらいのものでありました。
 もし、犬の代りに生きた人間を使用することができたならば、ここに集まる武士たちのうちの幾人かは、もっと痛快味を刺戟されたかも知れません。さすがにそれはできないから、猛犬を以て甘んずるというような種類《たぐい》もあったでありましょう。
 犬の首から松の枝へかけた細引を、しかと松の大木の幹へグルグルと絡《から》げておいてから、二人の犬殺しは、ムク犬の首に二重三重に繋がれた鉄の鎖を解きにかかりました。一象の力
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