を破られたのもあったけれど、すぐにまた例の道庵先生かと思って、わざわざ起きて様子を見届けようとするものもありませんでした。けれども当の鰡八大尽の家では、その大きな声で驚かされないわけにはゆきませんでした。殊に時めく大尽に向って、鰡八、鰡八、と言って横柄《おうへい》に頭から呼びかけるような人は、滅多にないはずなのであります。
 ちょうどその高楼の二階の一間で、急病に苦しんでいた鰡八大尽は、いま少しばかりその苦しみが退《ひ》いたので、附添のものもホッと息をついているところへ、外の闇の中から、いずこともなくこの突拍子もない大音で、
「鰡八、鰡八」
と呼びかけたのが耳に入りました。
「あれは誰だ」
と、それが大尽の耳ざわりになったのは、道庵先生にとっては誂向《あつらえむ》きであったけれど、並んでいた人たちにとっては、身体を固くするほどの恐縮なのであります。何かにつけてごまかそうとしている時に、またしても、
「鰡八、鰡八」
と破鐘《われがね》のような大きな声で、続けざまに呼び立てる声がします。
「あれは誰だ」
 急病は一時は落着いたけれど、この声で大尽の落着きが乱れて来るようであります。鰡八、鰡
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