ようになるかも知れません、もしこれが御縁で大尽のお気に入りにでもなって、お出入りが叶うようになりますれば、使に立った私共までが面目でございます」
「この馬鹿野郎!」
道庵先生はこの時に、眼より高く差し上げていた薬研を、力を極めて玄関先へ投げつけました、薬研は凄《すさま》じい音をして、鰡八大尽の使者の足許へ落ちました。それと共に爆裂弾の破裂するような道庵先生の大音で、
「ざまあ見やがれ!」
使者の連中は、この人並ならぬ道庵先生の挙動と、足許で破裂した薬研の響きで、腰を抜かすほどに驚きました。
物を知らないというのは怖《おそ》ろしいものであります。使者の連中も、最初から道庵先生と心得てかかれば、これほどのことはなかったであろうに、惜しいことに、その辺の注意が行届かなかったから、こういうことになったのは返す返すも残念でありました。
「こりゃ気狂《きちが》いだ」
長居をしてはどういう目に逢うか知れないと思って、あわてふためいて這々《ほうほう》の体《てい》で、使者の連中は逃げ帰ってしまいました。
こうして彼等を追い返したけれども、道庵先生の余憤はまだ冷めないのであります。寝巻のままで庭へ飛び下りました。庭へ飛び下りて用心梯子《ようじんばしご》まで来ると、それへ足をかけて、みるみる屋根の上へ登ってしまいました。雇人の国公は、先生として斯様《かよう》な挙動はありがちのことだから、別段に驚きもしないし、いま物狂わしく屋根の上へ登って行く道庵先生を見ても、それを抱き留めようともなんともしないのであります。
それよりもいま、道庵先生が投げた薬研を、玄関の鋪石《しきいし》のところから拾い上げて、転《ころ》んだ子供をいたわるように撫《な》でていましたが、それが鋪石に当って、多少の凹みが出来たことを惜しいものだと思っています。先生がムキになって何かを抛《ほう》り出して大切の物を創《きず》にするのは、今に始まったことではありませんでした。
この夜中に屋根の上へ登った道庵先生は、それでも辷《すべ》り落ちもしないで、やがて屋の棟《むね》の上へスックと立ちました。
ここから見上げると、鰡八大尽の大厦高楼《たいかこうろう》は眼の前に聳《そび》えているのであります。道庵先生はそれを睨みつけながら、
「鰡八、鰡八」
と突拍子《とっぴょうし》もなく大きな声で怒鳴りました。近所の人はその声に夢を破られたのもあったけれど、すぐにまた例の道庵先生かと思って、わざわざ起きて様子を見届けようとするものもありませんでした。けれども当の鰡八大尽の家では、その大きな声で驚かされないわけにはゆきませんでした。殊に時めく大尽に向って、鰡八、鰡八、と言って横柄《おうへい》に頭から呼びかけるような人は、滅多にないはずなのであります。
ちょうどその高楼の二階の一間で、急病に苦しんでいた鰡八大尽は、いま少しばかりその苦しみが退《ひ》いたので、附添のものもホッと息をついているところへ、外の闇の中から、いずこともなくこの突拍子もない大音で、
「鰡八、鰡八」
と呼びかけたのが耳に入りました。
「あれは誰だ」
と、それが大尽の耳ざわりになったのは、道庵先生にとっては誂向《あつらえむ》きであったけれど、並んでいた人たちにとっては、身体を固くするほどの恐縮なのであります。何かにつけてごまかそうとしている時に、またしても、
「鰡八、鰡八」
と破鐘《われがね》のような大きな声で、続けざまに呼び立てる声がします。
「あれは誰だ」
急病は一時は落着いたけれど、この声で大尽の落着きが乱れて来るようであります。鰡八、鰡八と、事もなげに自分を呼び捨てる怪物が外にあると思えば、よい心持はしないらしくあります。それが怪物であるならば、まだよいけれど、人間であるとしてみれば、打捨ててはおかれないのであります。大尽はその声のする方を睨めていると、
「気狂《きちが》いでございます」
さきに道庵先生のところへ使者に行って逃げ帰ったのが、恐る恐る大尽に向ってこう言いました。
「隣の屋根の上あたりでする声のようだ、隣はいったい何者が住んでいるのだ」
大尽は耳をすまして、なおその声を聞こうとしながら附添の者にたずねると、
「貧乏医者でございます、貧乏な上に気違い同様な奴でございます」
「怪《け》しからん、ナゼ早く買いつぶして立退かせないのだ」
「それがどうも……」
大尽の御機嫌が斜めになるのを、附添の者はハラハラしていると、
「鰡八、病気はどんな塩梅《あんばい》だ、ちっとは落着いたかい」
屋根の上でこういう大きな声がしました。
「怪しからん」
「鰡公」
「憎い奴だ」
「鰡公よく聞け、手前は貧乏人からそれまでの人間になった男だから、ともかくも物の道理はわかるだろう、手前の廻りにいて胡麻《ごま》を摺《す》っている奴
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