る人であったならば、相手がなにしろ道庵先生だということを腹に置いてかかるのだけれど、不幸にしてその連中は、それだけの心得も腹もない連中が、狼狽《あわて》て駈けつけたもんだから、鰡八大尽のためにも、道庵先生のためにも、悪い結果を齎《もたら》すということを夢にも予想はしませんでした。
「今晩は、今晩は」
 大尽の家の子郎党は、傾きかかった道庵先生の家の門を、荒々しく叩きました。
「国公、起きて見ろ、いやに荒っぽく門を叩く奴がある、こちとらの門なんぞは、下手《へた》に叩かれたんではひっくり返ってしまわあな」
 道庵先生はその音を聞きつけて、寝床の中から薬箱持ちの国公に差図しました。
 国公は、慣れたものだから、直ぐに起きて案内に出ました。
「どーれ」
 国公が応対に出たけれども、道庵先生の寝ているところと玄関とは、いくらも隔たっていないのだから、先生はその応対の模様を、いつも寝ながらにして聞いていて、それによって病気の模様を察し、急いで駈けつけるべき必要があると認めた時は急いで駈けつけ、悠々《ゆるゆる》していた方が病人のためになると思った時は、わざと悠々したりなどするのが例でありました。
「今、御前《ごぜん》が御急病でいらっしゃる、先生に大急ぎで出かけていただきたい、御前はお気が短くていらっしゃるから、愚図愚図しているとお為めになりません、寝巻のままで決して御遠慮なさるには及びませんから、こういう場合でございますから、失礼は私共からあとで幾重にもとりなして差上げますから、どうか御一緒に願いたいもので」
 国公が玄関の戸をあけるを待ち兼ねて、外からこういう挨拶でありました。寝ながら聞いていた道庵先生は、どうも解《げ》せない挨拶だと思いました。第一、御急病でいらっしゃる御前というのは、何者であるかということも解せないのでありました。それに気が短くていらっしゃるから、愚図愚図していると為めにならないという言い分は、考えてみるとおかしな言い分でありました。お気が短くていらっしゃろうと、お気が長くていらっしゃろうと、こっちの知ったことではないのであります。寝巻のままで御遠慮をなさるには及ばないから出て来いという言い草も、ずいぶん変った言い草であります。失礼はあとでとりなして上げるというのは、いったい誰に向って言ったのだろうと、道庵先生も少しく面喰って、世には粗忽《そそっ》かしい奴もあるものだ、頼まれる方へ向ってすべき挨拶を、頼む方からしてしまっている、急病で気が顛倒《てんとう》しているとは言いながら、おかしな奴等だと道庵先生は、腹の中でおかしがっていました。
 道庵先生にも解せなかったように、取次の国公にも解せなかったから、眼をパチパチして、
「いったい、どちらからおいでなすったんでございます」
「どちらから? そうそう、それそれ、このお隣の大尽から参りました、大尽がただいま御急病でいらっしゃるから、それでお使に」
 使の者がこう言った時に、
「馬鹿野郎!」
 道庵先生がバネのように起き上りました。
「何でえ、何でえ」
 道庵先生がムックリと跳《は》ね起きて、寝巻の帯を締め直す隙《ひま》もなく、枕許にあった薬研《やげん》を抱えて玄関へ飛び出しました。
 もし先生が心得のある武士であったなら、薬研を持ち出すようなことはなかったでありましょうけれど、先生の枕許には、別段に武器の類《たぐい》を備えてありませんでしたから、先生はあり合せの薬研を抱えて飛び出したものであります。そうして玄関へ飛び出した先生の挙動は、確かに鰡八大尽《ぼらはちだいじん》の使者を驚かすに足るものでありました。挙動だけが使者を驚かすのみでなく、その言葉も彼等の度胆《どぎも》を抜くに充分なものでありました。
「さあ承知ができねエ、もう一ぺん言ってみろ、手前《てめえ》たちはどこから、誰に頼まれて来たのか、もう一ぺん言ってみろ」
 先生は薬研を眼よりも高く差し上げて、鰡八大尽の使者を睨《にら》みつけたところは、かなり凄《すご》いものでありました。
「私共は、お隣の鰡八大尽の邸から上りました……」
「鰡八がどうした、その鰡八がどうしたと言うんだ」
「鰡八の御前が急に御大病におなりなさいましたから、先生に診《み》ていただきたいと思って上りました」
「それからどうした」
「もともと鰡八の御前は、滅多《めった》なお医者様にはおかかりにならないお方でございます、立派なお医者様をお抱え同様にしてあるのでございますが、なにぶん今晩のところは、急の御病気だものでございますから、よんどころなく先生のところへ上ったわけなのでございます」
「そうか、よんどころなく俺のところへ頼みに来たのか、よく来てくれた」
「何が御縁になるか知れたものではございません、これからこちらの先生も、大尽へお出入りが叶《かな》う
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