ま》を蹴開いて、お君の寝室へ跳《おど》り入りました。
お君は端坐して、その手には、さきほど能登守から贈られたという袋入りの短刀の鞘《さや》を払っていたのであります。
お君は能登守からの短刀の鞘を払って、あわやと見えるところでした。兵馬はその手を押えました。
「ここで御身を殺しては、能登守殿にも申しわけがない、甲州から頼まれた人たちへも申しわけがない、これまでの苦心が仇《あだ》になる、短慮なことをなされるな」
兵馬に抑えられたお君は、それを争うことができません。お君としては、兵馬の寝鎮《ねしず》まるのを待って、用意の上に用意しての覚悟でありました。けれども、油断なき兵馬の心に乗ずることができませんでした。
「ああ、わたくしの身はどうしたらよいのでございましょう、あの立派な殿様を、世間にお面《かお》の立たぬようにしたのも、わたくしでございます、あなた様にこんな御迷惑をかけるのも、わたくし故でございます、生きていてよいのか、死んでしまってよいのか、わたしにはわかりませぬ」
短刀を取られてしまったお君は、そこへ泣き伏しています。
「お君殿、そなたの身の上を頼まれたは拙者、殺してよい時はこの兵馬が殺して上げる、それまでは不足ながら万事を拙者にお任せ下さい、必ず悪いようには致さぬ、もしそれを聞かずに再びこのような短慮な事をなさる気ならば、拙者にも了簡《りょうけん》がある」
兵馬は言葉を強くしてこう言いました。けれどもお君は、それに対して何の返事もできないのであります。
「さあ、御返事をなさい、この上とも万事を兵馬にお任せ下さるか、それがいやならば、この短刀をお返し申す故、この場で改めて自害をなさい、兵馬が介錯《かいしゃく》をして上げる、介錯した後にはこの兵馬も、そのままではおられませぬ」
兵馬はなお手強く言って、お君の口から誓いの言葉を聞こうとするらしくあります。
「そのお返事のないうちは、この場を去りませぬ」
兵馬はお君に向って、あくまでその返答を迫るのであります。
「宇津木様、わたくしには何もかもわからなくなりました、お前様のよろしきように」
ともかくもその場はお君を取鎮め、万事を我に任せろと頼もしいことを言って力をつけたものの、兵馬自身によくよく衷心《ちゅうしん》を叩いて見ると、それは甚だ覚束《おぼつか》ないことです。身一つの処置をどうしてよいかわからないというのは、お君が自分でわからないのみならず、兵馬はなお分っていないのであります。慢心和尚から頼まれて引受けて来た時もわかってはいない、苦心を重ねてようやく能登守を尋ね当ててそれを計ってみると、いよいよわからなくなりました。
能登守の立場を見れば、それにお君を会わせて自分が帰ってしまうことはどうしてもできないことであります。そうかと言ってまた甲州へ連れて戻るわけにはゆかず……結局、どうすればよいのだか兵馬は、迷いに迷ってしまいました。
迷いに迷った揚句《あげく》に、兵馬が思い起したのは、道庵先生のことであります。この人へ真面目《まじめ》に相談をかけることは、張合いのないようなことだけれど、お君という人を暫らく保護してもらうことは、或いは頼みにならないことでもないと思いました。兵馬はここでともかくも、道庵へ行って相談しようとする心をきめました。
その翌日、兵馬が道庵を訪れようと用意しているところへ案内があって、一人の立派な武士が兵馬を訪ねて来たということであります。
「はて、誰だろう」
兵馬はここへ自分を訪ねて来る立派な武士があろうとは、予期していないことでありましたが、迎えて見ると、それは南条であります。
なるほど、今日ここへ訪ねて来るように言っていたが、前夜の労働者風の姿のみ頭に残っていたから、今こうして立派な武装をしてやって来られると、頓《とみ》にはそれと気がつかなかったのであります。
南条は頓着なく兵馬のいる一間へ打通って、
「いや、おかげさまで駒井とゆっくり話をすることができて面白かった。駒井は近いうち洋行をするそうじゃ。それは結構なことだ、あの男の学問と器量とを以て洋行して来れば、鬼に金棒というものだと賞《ほ》めてやった」
かく言って遠慮なく、駒井能登守のことを話されるのは兵馬にとっては苦痛であります。兵馬にとっては苦痛でないけれど、一間を隔ててお君の耳へそれを入れることが心配になるのです。
南条もそれを呑込んだか知らん、
「君、ちょっと外へ出ないか、滝の川へ紅葉《もみじ》を見に行こう」
南条それがしと宇津木兵馬とは、相携えて扇屋を出ました。
兵馬は、南条が自分をどこへ導いて行くのだか知りません。紅葉というのは出鱈目《でたらめ》で、王子から江戸の市中へ出るらしいのであります。時は夕暮で道は淋しい。
この途中、二人は、いろいろのことを
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