にて府下の騒擾も稍《やや》鎮静に及びたり」
[#ここで字下げ終わり]
幸いにしてこの貧窮組は、それだけの騒ぎで鎮まりました。大塩平八郎も出ないし、レニン、トロツキーも出ないで納まりました。たまたま道庵先生あたりが飛び出して、お茶番を差加えたようなことで、ともかくも納まったのは国家のために大慶至極と申すべきです。
表面、この騒ぎは納まったけれども、それの根本が絶たれたというわけではありません。一時は震え上った富豪たちが、あわてふためいて貧民の御機嫌を取ってみたけれど、表面の暴動が過ぎ去ってしまえば、あとはケロリとして忘れたもののように、書画骨董にばかげた金を出したり、ふざけきった集まりをして見せたり、無用の建築をして見せたり、そんなことで以前よりは一層の太平楽《たいへいらく》を、露骨に見せるようになったのは困ったものであります。
それと共に、一時の雷同に出でないで、心ひそかにこの世の有様を観察し、或いは憤慨している者がようやく多くなってゆきました。
本町一丁目の自身番へ、眼の色を変えて飛び込んだのは、いつもそそっかしい下駄屋の親爺《おやじ》であります。
「大変だ!」
と言ってその親爺は息を切りました。この男のそそっかしいのは今に始まったことではないけれど、今日は眼の色が変ってるだけに、それから貧窮組の騒ぎが納まって間もない時であるだけに、そこに集まる親爺連の胸を騒がせて、
「どうなすった」
種彦《たねひこ》の合巻物《ごうかんもの》を読んでいた親爺も、碁と将棋をちゃんぽんにやっていた親爺も、それの岡目をしていた親爺も、昼寝をしていた親爺も、そこに集まる親爺という親爺が、みんな下駄屋の親爺の大変だという一声で驚かされました。
一体、ここへ集まる親爺連は、かなりいい気なものでありました。外は往来の劇《はげ》しい本町の真中で、内は閑々たる別天地、半鐘がジャンと打《ぶっ》つからない限りは他人の来る気遣《きづか》いはないところで、これらの親爺連の心配になることは、夕飯を蕎麦《そば》にしようか、それとも鰻飯《うなぎめし》とまで奮発しようかというような心配でありました。鰻のついでに酒の隠れ呑みもしなければならないというような心配でありました。その閑々たる空気を、下駄屋の親爺が破って言うことには、
「外へ出てごらんなさい、大変な物だ、そこの雨樋筒《あまひづつ》に生首が一ツ……」
「エ!」
「嘘だ、嘘だ」
「冗談《じょうだん》じゃねえ、善兵衛さん、貧窮組が納まって間もねえ時だ、嚇《おどか》しっこなし」
「生首は嘘だが、まあ外へ出てごらんなさい、大変な張紙だ」
「エ、張紙?」
張紙と聞いてやや安心をしました。やや安心したけれど、それは生首と聞いた時よりも安心したので、この時分の張紙は、生首と聞くのと、ほぼ同じように気味の悪いものでありました。親爺連はせっかくの興を殺《そ》がれたけれど、また別の興味を持って外へ出たり、外を覗《のぞ》いたりして見ると、その自身番の北手の雨樋筒《あまひづつ》に大きな張紙がしてあって、それを通りがかりの人が、大勢して読んではワイワイ騒いでいるのであります。
「また、こんな悪戯《いたずら》をはじめやがった、人騒がせな悪戯だ」
と自身番の親爺は、ブツブツ言いながらその張紙を引っぺがしにかかりました。自分も読まないうち、人にも読ませないうちになるべく早く引っぺがして、町奉行にお届けをする方がよいと思って、邪慳《じゃけん》にそれを引っぺがして、自身番の中へ持ち込んでしまったから、見物の中には一読したものもあろうし、まだ読みかけて半ばのものもあったろうし、これから読もうと思っていた者もあったのが、一同、鳶《とんび》に物を浚《さら》われたような気持になって、自身番へ持ち込んだ親爺連の後ろを恨めしげに見送っていること暫時《しばし》、幸いに大した騒ぎにはならずに散ってしまいました。
自身番の内部へその張紙を持ち込んだ親爺連、額を集めて眼の敵《かたき》のようにそれを読みはじめました。その文言はこうであります。
[#地から9字上げ]「糸会所取立所
[#地から3字上げ]三井八郎右衛門
[#地から3字上げ]其他組合の者共
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此者共、めいめい世界中名高き巨万の分限にありながら、足ることを知らず、強慾非道限り無き者共、身分の程を顧みず報国は成らずとも、皇国《みくに》の疲労に相成らざるやう心掛くべき所、開港以来諸品高価のうちには、糸類は未曾有の沸騰に乗じ、諸国糸商人共へ相場状《そうばじよう》にて相進め、頻りに横浜表へ積出させ候につき、糸類悉く払底、高直《こうぢき》に成り行き万民の難渋少からず、畢竟此者共荷高に応じ、広大の口銭を貪り取り候慾情より事起り、皇国の疲労を引出し、一己《いつこ》の利に迷ひ、他の難渋を顧みず、
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