げ終わり]
 これによって見ると「近世紀聞」の記者は、貧窮組を蟻の集まる如く、蠅の群がるに異ならずと見たのであります。貧民といえども人間であろうのに、それを蟻や蠅と同じに見られたということは不幸であります。
 けれども蟻や蠅に見立てられる貧民自身にとっては、必ずしも物好きでやったことではないらしいのであります。彼等にあっては、天下が徳川のものであろうと、薩長の手に渡ろうと、そんなことは大した心配ではありませんでした。ただ心配なことは、物が高くなって食えなくなるということでありました。
 天下国家の大きなことを憂《うれ》うる人には、別に志士という一階級があって、それは殿様から代々|御扶持《ごふち》をいただいて、食うというような賤《いや》しいことには別段の心配のなかった者や、その家庭に生い立った人が多いのであります。けれども、この貧窮組は生え抜きの平民でありました。武士は食わねど高楊枝《たかようじ》、というようなことを言っておられぬ身分の者ばかりでありました。彼等は食いたくてたまらないのであります。世に食いたくてたまらないものが食えなくなるということほど、怖るべき事実はないのであります。蟻や蠅でさえ生きていられる世の中に、人間が食えなくなって生きていられないという世の中は、無惨《むざん》なものといわねばなりません。
 それがためであったかどうか知れないが、あの不得要領な貧窮組が勃発して江戸市中を騒がすと共に、有司《ゆうし》も金持も不得要領に驚いてしまいました。ことに驚いたのは金持の連中でありました。一時は生きた空がなくて、金品を寄附したり、慈善会のようなものを起したりして、貧民の御機嫌を取ろうとしてみた狼狽《あわ》て方はかなり不得要領なものでありました。けれどもそれは、誠意のある狼狽て方ではなく、不得要領はいよいよ不得要領な狼狽て方であります。
 けれどもその時分の政治は、打てば響くような政治ではありませんでした。徳川幕府が亡びかかった時代の政治でありました。米が高くなろうとも、物価が上ろうとも、幕府の方では、あんまり干渉をしませんでした。いよいよの時までは成行きに任せておいて、何か出たら出た時の勝負というような政治でありました。
 金持の連中もまた、儲《もう》けたい奴は盛んに儲け、儲けた上に莫大の配当をしました。そうして、大ビラで贅沢《ぜいたく》や僭上《せんじょう》の限りを尽しました。蟻や蠅なんぞは踏みつぶして通る勢いでしたけれども、その蟻や蠅が多数を組んであばれ出してみると、唇の色を変えて周章狼狽した有様は、滑稽にもまた不得要領の現象でありました。
 さすがに緩慢主義の幕府も、こう騒ぎ出されてみると、手を束《つか》ねてばかりはいられませんでした。同じ「近世紀聞」という本のうちに、
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「其頃既に庄内藩には府下非常を誡《いまし》めのため常に市中を巡邏《じゆんら》あり、且つ南北の町奉行にも這回《このたび》の暴挙を鎮撫なさんと自ら夥兵《くみこ》を従へつつ普《あまね》く市街を立廻りて適宜の処置に及ばんとするに、貧民は早や食ふと食はぬの界に臨みたるなれば、各《おのおの》死憤の勢ありて小吏等万般説諭なせどもなかなかに鎮まらず、或は浅草今戸町その外処々の辻々へ貧窮人等が張札をして区々の苦情を演《の》べたるうへ、先づ差当り白米の代価百文に付《つき》五合ならねば窮民口を糊《こ》し難しと記し、また或は米穀は固《もと》より諸色《しよしき》の代価速かに引下ぐるにあらずんば忽ち市中を焼払はんなどと書裁《しよさい》なしたる所もあり、斯《かく》なして尚《なほ》貧民等は市街を横行なせる事は日を追つて熾《さかん》なりしが、其頃品川宿に於て施行《せぎよう》を出すを左右《かにかく》と拒みたる者ありとて忽ち其家を打毀《うちこは》せしより人気いよいよ荒立《あらだつ》て、渋りて物を出さぬ家は会釈もなく踏込で或は鋪《みせ》をうち毀し家内を乱暴に及ぶにぞ、蓄財家《かねもち》は皆|戦慄《ふるへおそれ》て家業を休み店を閉めて只乱暴の防ぎをなせば、貧窮人のみ勢ひを得て道路に立ちて威を震《ふる》ひしは実に未曾有の珍事なりけり……さる程に貧民の暴動かくの如くなれば、庄内侯の巡邏方《まはりかた》且つ町奉行の手を以て其の発頭人なる者を追々捕縛なしたりしかど、もとこれ、米価の沸騰より飢餓に逼《せま》るに耐へかねて、かかる挙動に及べるなれば、兎《と》に角《かく》是等を救助せずして静まるべきの筋にあらずとて、先づ救民小屋|造立《つくりたて》の間、本所|回向院《えこういん》、谷中《やなか》天王寺、音羽《おとは》護国寺、三田《みた》功運寺、渋谷渋谷寺の五ケ寺に於て炊出《たきだ》しを命ぜられ普く貧民に之を与へ、其うち神田佐久間町の広場に小屋を設けられて至極の貧人を救助せしかば、是
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