だ一人の現在の伯母であったけれども、決してお松のためになる伯母ではありません。前にもためにならなかったように、これからとてもためになりそうな伯母でないことは、その身なりを見ても、面《かお》つきを見てもわかるのであります。
「どうしたの、まあお前、珍らしい、こんなところで」
「どうも御無沙汰をしてしまいました」
「御無沙汰もなにもありゃしない、お前、こっちにいたんならいたように、わたしのところへ何とか言ってくれたらよかりそうなものじゃないか、そんなにお前、親類を粗末にしなくったっていいじゃないか、いくらわたしが零落《おちぶ》れたって、そう見下げなくってもいいじゃないか」
「そういうわけではありませんけれど」
「まあ、こんなところで何を言ったって仕方がないから、わたしのところへおいで、前と同じことに佐久間町にいるよ、ここからは一足だよ、わたしも此家《ここ》の先生へ用があって来たけれど、お前に会ってみれば御用済みだよ、さあ一緒に帰りましょう、いろいろその後は混入《こみい》った事情もあるんだから、さあ帰りましょう」
伯母のお滝は、もう自分が先に引返して、お松を自分の家へ連れて行こうというのであります。その言葉つきから言っても、素振《そぶり》から言っても、以前よりはまた落ちてしまったように見えることが、お松には浅ましくて堪りません。
「せっかくでございますけれど伯母様、今日は急ぎの用事がございますから、明日にも、きっと改めてお邪魔に上りますから」
「そんなことを言ったって駄目ですよ、お前はもうこの伯母を出し抜くようになってしまったのだから油断がなりませんよ、お前に逃げられたために、わたしがどれほど災難になったか知れやしない、今日は逃げようと言ったって逃がすことじゃありませんよ」
「伯母さん、逃げるなんて、そんなことはありません」
「ないことがあるものか、京都を逃げたのもお前だろう、それからお前、国々を渡り歩いていたというではないか、それで一度も、わたしのところへ便りを聞かせてくれず、こっちへ来ても、他人のところへはこうして出入りをしていながら、目と鼻の先にいるわたしのところなんぞは見向きもしないじゃないか、ほんとにお前くらい薄情者はありゃしない」
「けれども伯母さん、今日はどうしても上れません」
お松の言葉が意外に強かったものだから、お滝も少し辟易《へきえき》し、
「どうして来られないの」
「今日は、御主人にお暇をいただいて出て参りましたのですから、その時刻までに帰らなければ済みませんもの」
「御主人? お前はどこに御奉公しているの、御主人というのはどういうお方」
「はい。それは……」
お松はこの伯母に、今の自分の居所を言っていいか悪いかと躊躇《ちゅうちょ》しました。けれども、言わなければかえって執拗《しつこ》くなるだろうと思ったから、思い切って言ってしまいました。
底本:「大菩薩峠5」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 三」筑摩書房
1976(昭和51)年6月20日初版発行
※「五ケ寺」「躑躅《つつじ》ケ崎《さき》」「松ケ枝」「隠ケ岡」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2002年9月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全43ページ中43ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング