多数に憎まれながら、こう言って見得《みえ》を切りました。
「ともかくも、ああして置くのは惜しいものじゃ」
 こうして、お君のことがこの家に集まる若い浪士たちの噂に上ってゆきました。
 しかし、それだけでは納まることができなくなった時分に、これらの連中のなかでも剽軽《ひょうきん》な一人が犠牲となって――この男ならば、たとえ言い損ねても老女から叱られる分量が少ないだろうと、総てから推薦された一人が、ある時、老女に向って思い切ってそれを尋ねてみました。
「時に、つかぬことをお聞き申すようだが、あの奥にござるあの若い婦人は、あれはいったい主のある婦人でござるか、但しは主のない婦人でござるか……」
 額の汗を拭きながらこういうと、老女は果して、厳《いか》めしい面《かお》をして黙ってその男の面を見つめておりました。
 せっかく切り出したけれども、こう老女に黙って面を見られると、二の句が継ぎ難く、しどろもどろであります。
「それがどうしたというのでございます」
 老女は意地悪く突っ込みました。
「それがその、僕が一同を代表して……」
 一同を代表してはよけいなことであります。せっかく自分が犠牲者として一同から推薦され、自分もまた甘んじて犠牲になる覚悟で切り出しておきながら、老女に炙《あぶ》られて脆《もろ》くも毒を吐いてしまって、罪を一同へ塗りつけたのは甚だみにくい態度でありました。
「一同とはどなたでございます」
「一同とは拙者一同」
「何でございます、それは」
 苦しがってその男は、脂汗《あぶらあせ》をジリジリと流しました。
「その一同によくそうおっしゃい、女房が御所望ならば、三千石の身分になってからのこと」
「なるほど」
 なるほどといったのは何の意味であったか自分もわからずに、恐れ入ってその男は退却して、一同のところへ逃げ込みました。
 いわゆる、一同の連中は、逃げ返ったその男を捉まえてさんざんに小突き廻しました。
 一同を代表してというのは武士としていかにも腑甲斐ない言い分であるというので、詰腹《つめばら》を切らせる代りに、自腹《じばら》を切って茶菓子を奢《おご》らせられ、その上、自分がその使に行かねばならなくなりました。
 しかし一方にはまた、老女の言い分に対して、不満を懐《いだ》くものもないではありません。女房が所望ならば、三千石の身分になってからというのは、我々に対して聞えぬ一言であるという者もあります。老女の言葉の裏には、我々を三千石以下と見ているものらしい。不肖《ふしょう》ながら我々、未来の大望《たいもう》を抱いて国を去って奔走する目的は、三千や一万のところにあるのではない。それを承知で我々を世話して置くはずの老女の口から、なれるものなら三千石になってみろと言わぬばかりの言い分は、心外であると論ずる者もありました。
「ナニ、そういうつもりで老女殿が三千石と言ったのではあるまい、何か他に意味があることであろう」
と言いなだめる者もありました。
 三千石の意味の不徹底であったところから議論が沸騰して、それからお君のことを呼ぶのに三千石の美人と呼ぶように、この一座で誰が呼びはじめたともなく、そういうことになりました。
 三千石の美人。こうして半ば無邪気な閑話の材料となっている間はよいけれど、もし、これらの血の気の多い者共のうちに、真剣に思いをかける者が出来たら危険でないこともあるまい。老女の睨《にら》みが利いていて、食客連が相当の体面を重んじている間はよいけれど、それを蹂躙《じゅうりん》して悔いないほどの無法者が現われた時は、やはり危険でないという限りはありますまい。

 それから二三日して、お松は暇をもらって、相当の土産物などを調《ととの》えたりなどして、長者町に道庵先生を訪れました。
 その時分には、先日の手錠も満期になって、手ばなしで酒を飲んでいましたが、話が米友のことになると、道庵が言うには、あの野郎は変な野郎で、ついこのごろ、薬を買いにやったところが、その代金を途中で落したとか取られたとか言って、ひどく悄気《しょげ》て来たから、そんなに力を落すには及ばねえと言って叱りもしないのに、気の毒がって出て行ってしまった。さあ、その行先は、よく聞いておかなかったが、なんでも本所の鐘撞堂《かねつきどう》とか言っていたようだ、と言いました。
 米友の行方《ゆくえ》を道庵先生が知っているだろうと、それを恃《たの》みに訪ねて来たお松は、せっかくのことに失望しましたけれど、なお近いうちには便りがあるだろうと言われて、いくらか安心して帰途に就きました。お松が、道庵先生の屋敷の門を出ようとすると出会頭《であいがしら》に、
「おや、お松じゃないか」
「伯母さん」
 悪い人に会ってしまいました。これはお松のためには唯一の伯母のお滝でありました。た
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