隠すことができないらしくありました。
けれども、また直ぐに窓掛を下ろして、姿を研究室の奥深く隠してしまいました。駒井甚三郎は再びこの不快な一種の曝《さら》し物に眼を注ぐことはなかったけれど、ほどなくその裲襠と守り刀の袋とは、何者かの手によって取外されて、どこへか隠されてしまいました。
それから程経て、馬を駆《か》ってその普請場から出て行く一個の人影を見ることができました。おそらくそれはその普請場を早朝から巡視に来た役人であったろうけれど、笠を深く被《かぶ》っていたから、誰とも知ることができません。
その人は馬を駆ってやや暫らく行った時に、途中で行会った百姓男を呼び留めて、
「これこれ」
「はい」
「お前は王子の方へ行くと見えるな、気の毒ながらこれを扇屋まで届けてもらいたいものじゃ」
「へえへえ、よろしうございますとも」
頼む人が身分ありげな人であって、頼む言葉も丁寧であったから、頼まれた百姓は恐れ入って承知をしました。幸い、この百姓は扇屋の方へ行くべきついでの百姓でありました。馬上の人が取り出したのは一封の手紙らしくあります。
「ただこの手紙を持って扇屋へ立寄り、名宛の人に渡してもらえばよろしい、名宛の人がおらぬ時は、預けておいてよろしい、返事は要らぬ、これは些少《さしょう》ながらのお礼の印」
「どう致しまして、ほんのついででございますから、こんな物をいただいては済みましねえでございます」
馬上の人はお礼の寸志として、いくらかの金を与えようとしたのを、律義《りちぎ》な百姓は容易に受けようとしませんでした。それを強《し》いて取らせると、百姓は幾度も幾度も繰返してお礼を言い、その手紙を受取り、金の方はいただいていいのだか悪いのだか、まだわからないような面《かお》をしているうちに馬上の人は、
「しからば、確《しか》とお頼み申しましたぞ」
とばかり馬に鞭をくれてサッサと歩ませて行きました。百姓はその後ろ姿を見送って、
「お代官様みたようなエライお方だ、どこのお邸のお方か知らねえけれど」
と言って、その百姓はいま受取った手紙の表を見ると、見事な筆蹟で、
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「扇屋にて、宇津木兵馬殿」
[#ここで字下げ終わり]
と記してありました。
扇屋の一間に、お君は兵馬を待っていました。遅くも帰るであろうと待っていた兵馬は、ついに帰りません。
兵馬の身の
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