るんだ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が、また駄目を出しはじめます。
「どうしようか、お前よく考えてみな」
 七兵衛は煮えきらないのであります。がんりき[#「がんりき」に傍点]はそれをもどかしがって、
「考えてみなと言ったって、兄貴がその気にならなけりゃ仕方がねえ。実のところは俺《おい》らはモウ小遣銭《こづかいせん》もねえのだ、さしあたってなんとか工面《くめん》をしなけりゃならねえのだが、兄貴だって同じことだろう。命からがらで甲州から逃げて来たんだ、ここまで息をつく暇もありゃしねえ、いくら人の物をわが物とするこちとらだって、海の中から潮水を掬《すく》って来るのとはわけが違うんだ」
「今夜はなんとか仕事をしなくちゃならねえな」
「知れたことよ、そのことを言ってるんだ。いま聞けば、扇屋は何か役人の普請事の会所になっているというじゃねえか、そこへひとつ今晩は御厄介になろうじゃねえか」
「俺もそう思ってるんだ。普請事というのは何か鉄砲の煙硝蔵《えんしょうぐら》を立てるとかいうことなんだそうだ、なにしろお上の仕事だから、小さな仕事ではあるめえと思う、お金方《きんかた》も出張っているだろうし、突っついてみたら一箱や二箱の仕事はあるだろうと思う」
「そいつは耳寄りだ、兄貴、お前はいいところへ気がついていた」
「だから、そうきまったらどこかで一休みして、ゆっくり出かけるとしよう」
「合点《がってん》だ」
 こう言って二人は、板橋街道の夕暮を見渡しました。

 その晩になって、王子権現の境内へ二つの黒い影が、異《ちが》った方からめぐり合わせて来て、稲荷《いなり》の裏でパッタリと面《かお》が合いました。
「兄貴」
「百か」
 前の通り二人は百蔵と七兵衛とです。板橋街道の夕暮で見た二人の姿は、純然たる旅の人でありました。ここでは忍びの者のような姿であります。けれども二人とも脇差は差していて、足もまた厳重に固めていました。
「どうした」
「冗談じゃねえ」
 頭と頭とを、こっきらこ[#「こっきらこ」に傍点]とするほどに密着《くっつ》けて、百蔵が、
「役人の会所になっているというから、様子を見ていりゃあ、役人らしいのは一人も泊っていねえじゃねえか、それに普請《ふしん》のお金方《きんかた》とやらも詰めている塩梅《あんばい》はねえし、ふりの宿屋と別に変った事はねえ、なにも俺らと兄貴が、こうし
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