殺多生《いっさつたしょう》というのはそれだ、その女一人を斬ってしまえば、駒井もひっかかりがなくなる、君も解脱《げだつ》ができる、その女も君に斬られたら往生《おうじょう》ができることだろう。男子はそのくらいの勇気がなくてはならぬ、女々《めめ》しい小慈小仁に捉われているようでは大事は成せぬ」
 これはあまりに乱暴な議論であります。さきに慢心和尚は、女を沈めにかけると言って兵馬を驚かせました。それは慢心和尚一流のズボラであったけれど、この男の言う議論は、実行と交渉のある議論であるから剣呑《けんのん》です。

         七

 兵馬と南条なにがしとがこうして王子を立って、江戸の市中へ向けて出かけて行ったと同時に、これはまた板橋街道の方から連立って、王子の方面へ入って来る二人の旅人があります。
 かなり長い旅をして来たものらしく、直接に江戸へ入らないところを見ると、或いは王子を通り越して千住《せんじゅ》方面へ出るつもりかも知れません。先に立ったのはやや背の高い男、あとのは中背で前のよりは年も若い男。
「兄貴」
 人通りの絶えたところで後のが声をかけました。その声を聞くとなんのことはない、これは執念深い片腕の男、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百でありました。
「何だ」
 振返ったのは、取りも直さず七兵衛であります。
「今夜はどこへ泊るんだ」
 百蔵は今ごろこんなことを言って、七兵衛に尋ねてみるのもワザとらしくあります。
「どこにしようかなあ」
 歩いて来るには歩いて来たものの、二人はまだどこといってきめた宿がないもののようであります。
「今っからこの姿《なり》で、吉原《なか》へも行けめえじゃねえか」
とがんりき[#「がんりき」に傍点]が言う。
「そうよ」
「王子の扇屋へ泊ろうじゃねえか」
「いけねえ」
 七兵衛が首を左右に振りました。
「どうして」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は笠越しに七兵衛の面《かお》を見る。
「あすこはこのごろ、役人が出入りをしている、滝の川の方に普請事《ふしんごと》があって、それであの家が会所のようなことになっているから、上役人が始終《しょっちゅう》出入りをしているんだ」
「そうか」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]も暫らく口を噤《つぐ》んでしまいました。口を噤んでも二人は、なおせっせと道を歩いているのであります。
「それじゃあどうす
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