あるものだ、頼まれる方へ向ってすべき挨拶を、頼む方からしてしまっている、急病で気が顛倒《てんとう》しているとは言いながら、おかしな奴等だと道庵先生は、腹の中でおかしがっていました。
 道庵先生にも解せなかったように、取次の国公にも解せなかったから、眼をパチパチして、
「いったい、どちらからおいでなすったんでございます」
「どちらから? そうそう、それそれ、このお隣の大尽から参りました、大尽がただいま御急病でいらっしゃるから、それでお使に」
 使の者がこう言った時に、
「馬鹿野郎!」
 道庵先生がバネのように起き上りました。
「何でえ、何でえ」
 道庵先生がムックリと跳《は》ね起きて、寝巻の帯を締め直す隙《ひま》もなく、枕許にあった薬研《やげん》を抱えて玄関へ飛び出しました。
 もし先生が心得のある武士であったなら、薬研を持ち出すようなことはなかったでありましょうけれど、先生の枕許には、別段に武器の類《たぐい》を備えてありませんでしたから、先生はあり合せの薬研を抱えて飛び出したものであります。そうして玄関へ飛び出した先生の挙動は、確かに鰡八大尽《ぼらはちだいじん》の使者を驚かすに足るものでありました。挙動だけが使者を驚かすのみでなく、その言葉も彼等の度胆《どぎも》を抜くに充分なものでありました。
「さあ承知ができねエ、もう一ぺん言ってみろ、手前《てめえ》たちはどこから、誰に頼まれて来たのか、もう一ぺん言ってみろ」
 先生は薬研を眼よりも高く差し上げて、鰡八大尽の使者を睨《にら》みつけたところは、かなり凄《すご》いものでありました。
「私共は、お隣の鰡八大尽の邸から上りました……」
「鰡八がどうした、その鰡八がどうしたと言うんだ」
「鰡八の御前が急に御大病におなりなさいましたから、先生に診《み》ていただきたいと思って上りました」
「それからどうした」
「もともと鰡八の御前は、滅多《めった》なお医者様にはおかかりにならないお方でございます、立派なお医者様をお抱え同様にしてあるのでございますが、なにぶん今晩のところは、急の御病気だものでございますから、よんどころなく先生のところへ上ったわけなのでございます」
「そうか、よんどころなく俺のところへ頼みに来たのか、よく来てくれた」
「何が御縁になるか知れたものではございません、これからこちらの先生も、大尽へお出入りが叶《かな》う
前へ 次へ
全86ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング