では馬を曳いてがんりき[#「がんりき」に傍点]を追い飛ばした馬子、ここでは土を担いだり石を運んだりさまざまに変幻出没するけれど、要するに同一の人で、あのとき南条といわれて通った浪士らしい男であります。
縄張外に立てられた土方部屋を、夜中に密《そっ》と抜け出して手拭をかぶりつつ、作事小屋の方へ忍んで行くのもその人であります。どこへ何の目的あって行くのかと思えば、柵《さく》を乗り越えて、作事小屋の中へ足を踏み込みました。
工事の頭取と公儀の重役とが秘密に会議をする作事小屋の一室――そこをめざしてこの仮装の労働者は忍んで行くもののようであります。この男が秘密室を探ろうとするのは、今夜に始まったことではないのであります。
毎夜のようにその辺を探ろうとして忍ぶものらしいが、いつもその目的を達せずして帰るもののようであります。今宵もまたその通りで、空《むな》しく工夫部屋まで引返したのは、やはり例の秘密室の構造が厳重なのか、或いは中にいる人の用心が周到なので近寄れなかったものと見えます。
そうしているうちに、この火薬製造所の工事は進んで行くのであります。右の南条と覚しき奇異なる労働者は、相変らず毎日石を運んだり土を荷《にな》ったりして、他の労働者と同じことに働いているのであります。
硝石《しょうせき》の精製所も出来ました。硫黄《いおう》の蒸溜所も出来上りました。機械類の磨き方は、鉄砲師の川崎|長門《ながと》と国友松造という者が来て引受けました。水圧器の組立ても出来ました。
その都度《つど》、右の労働者は、役人や仲間のものの気のつかないうちに、家の建前と機械類の構造を注意することは驚くべき熱心さでありました。熱心でそうして機敏でありました。人に気取《けど》られようとする時は、何かに紛らかして、なにくわぬ面《かお》をしている澄まし方などは、そのつもりで見れば驚くべき巧妙さであります。
夜になって人の寝静まった時分には、それらの見取図を頭の中から吐き出して紙に写していることも、誰にも知られないで進んで行きました。紙に写した見取図は、工夫部屋の縁の下を掘って埋めておくことも、誰にも見つけられないで納まって行きました。埋めておいてから例の通り疑問の秘密室の方へ出かけるけれども、そこばかりはどうしても近寄ることができないらしくあります。近寄ることができても、内部の模様はどうして
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