腰になったところを見れば、この親爺連のうちでは、質屋の隠居が一番弱虫であることがわかります。
質屋の隠居が逃げ出したあとで人々の噂《うわさ》によれば、この隠居も、実は張札の糸では組合に入って大分|儲《もう》けている側だとのことでありました。この次に来たら嚇《おどか》して奢《おご》らしてやらずばなるまいなんぞと、あとに残った親爺連はいろいろ評定していました。
斯様《かよう》な張札はこの頃の流行《はや》り物《もの》としたところで、これはあまり物騒過ぎる。このままでは捨てておけないから自身番の親爺連は、これを町奉行の手へ届けることに評定をきめて、二三人の総代がそれを持って表へ出ました。
表へ出たところへ、折よく町奉行の手に属する見廻りの役人が、この自身番へやって来ました。それを幸いに総代は、
「実は斯様な次第でございまして、斯様な張札が……」
役人はそれを聞いてみて一通り読んで後、
「この筆蹟は……」
と首を傾《かし》げました。
その張札を町奉行へ持って来て、その筆蹟をあれこれと評議をしてみたところが、それが道庵の文字に似ているということが、至極迷惑なことであります。
長者町の名物としての道庵は、貧窮組と聞いて喜んで演説までしたけれども、それは至極穏健な演説で、貧窮組にも同情を寄せるし、物持連中にも、なるべく怪我をさせないようにとの苦心をしたものでありました。
道庵はこんな張札をする人物でないということは、お上の役人にもよくわかっているけれど、それにしてもこの筆蹟が道庵ソックリの筆蹟でありました。これはイタズラ者が、わざと道庵の筆蹟を真似て書いて、あとを晦《くら》まそうとした手段であることは明らかだけれど、それがために、いい迷惑を蒙《こうむ》ったのは道庵先生であります。ことにこのごろは鰡八大尽《ぼらはちだいじん》と楯を突き合っている時でもあるし、よしこれは道庵が書かないにしても、道庵に知合いのもの、道庵の許《もと》へ出入りする者の仕業《しわざ》ではないかと、目を着けられるようになったのがかわいそうであります。
三
甲斐《かい》の国の八幡《やわた》村の水車小屋附近で、若い村の娘が惨殺されて村を騒がした後、小泉家には、机竜之助もお銀様もその姿を見ることができなくなりました。
二人はどこへ行ったか、その入って来た時と同じように、この家を去
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