不直《ふちよく》の所業は権家へ立入り賄賂《わいろ》を以て奸吏を暗まし、公辺を取拵《とりこしら》へ、口銭と名付け大利を貪り、奸吏へ金銭を差送り、糸荷を我が得手勝手に取扱ひ、神奈川関門番人並に積問屋共へ申合せ、所謂《いはゆる》世話料受取り、荷物運送まで荷主に拘はらず自儘取扱ひ、不正の口銭貪り取候事、右糸会所取立三井八郎右衛門始め組合の者、他の難儀を顧みず、非道にて所持の金銭並に開港以来貪り取る口銭広大の金高につき、今般残らず下賤困窮人共に合力《ごうりき》の為配当つかはし申すべし、若し慾情に迷ひ其儘捨て置かば、組合の者共一々烈風の折柄《をりから》天火を以て降らし、風上より焼立て申すべく、其節に至り隣町の者共、火災差起り難渋に之れ有るべく候間、前記会所組合の者共名前取調べ置き、類焼の者は普請金並に諸入用共、存分に右の者より請取り申すべく、且つ火災差起り候はば、困窮の者共早速駈付け、彼等貯へ置き候非道の財宝勝手次第持ち去り申すべく、右の趣、前以て示し置き候間、一同疑念致すまじき事」
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 これだけのことを、自身番の親爺のうちでも読むことの達者な眼鏡屋《めがねや》の隠居が、スラスラと節をつけて読み立てました。
 下駄屋の親爺は、面白そうに聞いていました。質屋の隠居は、不安らしい面《かお》をして聞いていました。
「なにしろ、事が穏かでごわせんな」
と質屋の隠居は、いとど不安心の色を深くしました。
「はははは、三井さんも、いよいよやられますかな」
 下駄屋の親爺は、やはり面白半分に深くは問題にしていないらしくあります。
「ナニ、やる奴に限って先触《さきぶれ》は致しませんな、ただほんのイタズラでございますよ、嚇《おどか》しに過ぎませんよ」
 寝ころんで種彦を読んでいる親爺が、やや遠くから言い出しました。
「そうも言えませんぜ、人気のものですからワーッと騒ぐと、何をやり出すか知れたものではござんせん、本所の相生町《あいおいちょう》の箱惣《はこそう》なんぞがそれでございますからな、首を刺されて両国橋へ曝《さら》されて、やっぱりこの通りの張札をされたんでございますからな」
 眼鏡屋の隠居はそれに答えました。
「ああ、鶴亀、鶴亀、そんな話は御免だ」
と質屋の隠居は気を悪くしたと見えて、煙草入を腰に挟《はさ》んで立ち上りました。折角今まで碁を打っていたのに、それを早々逃げ
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