りました。貧窮組というのは、一種の不得要領な暴動でありました。明治六年の出版にかかる「近世紀聞」という本に、その時代のことをこんなふうに書いてあります。
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「是より先、米価次第に沸騰して、既に大阪市中にては小売の白米一升に付《つき》銭七百文に至れば、其日稼《そのひかせ》ぎの貧民等は又|如何《いかん》とも詮術《せんすべ》なく殆ど飢餓に及ばんとするにぞ、九条村且つ難波村など所々に多人数寄り集まり不穏の事を談合して、初めは市中の搗米屋《つきごめや》に至り低価《ねやす》に米を売るべしとて、僅の銭を投げ出し店に積みたる白米を理不尽に持行くもあり、或は代価も置かずして俵を奪ひ去るもあれど多人数なる故|米商客《こめあきうど》も之を支《ささ》ゆる事を得ず、斯《かく》の如くに横行して大阪中の搗米屋へ至らぬ隈《くま》もなかりしが、果《はて》はますます暴動|募《つの》りて術《すべ》よく米を渡さぬ家は打毀《うちこは》しなどする程に、市街の騒擾《そうじよう》大かたならず、這《こ》は只|浪花《なには》のみならず諸国に斯る挙動ありしが、就中《なかんづく》江戸に於ては米穀其他総ての物価又一層の高料《たかね》に至れば、貧人飢餓に耐へざるより、或は五町七町ほどの賤民おのおの党を組みて、身元かなりの商家に至り押して救助を乞はんとて其町々に触示《しよくじ》し、※[#「にんべん+尚」、第3水準1−14−30]《もし》其の党に加はらざれば金米その他何品にても救助の為に出すべき旨強談に及ぶにぞ、勢ひ已《やむ》を得ざるより身分に応じ夫々《それぞれ》に物を出して施すもあり、力及ばぬ輩《やから》は余儀なく党に加はるをもて、忽《たちま》ち其の党多人数に至り、軈《やが》て何町貧窮人と紙に書いたる幟《のぼり》をおし立て、或は車なんどを曳いて普《あまね》く府下を横行なし、所々にて救助を得たる所の米麦又は甘藷《さつまいも》の類《たぐひ》を件《くだん》の車に積み、もて帰りて便宜の明地《あきち》に大釜を据ゑ白粥を焚きなどするを、貧民妻子を引連れ来りて之を争ひ食へる状《さま》は、宛然《さながら》蟻《あり》の集まる如く、蠅の群がるに異ならで哀れにも浅間《あさま》しかり、されば一町|斯《かく》の如き挙動に及ぶを伝へ聞けば隣町忽ちこれにならひ、遂に江戸中貧民の起り立たざる場所は尠《すくな》く……云々」
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