やし》が当りに当ったものだから、いよいよいい気になって、このごろでは、道庵も本業の医者をそっちのけにして踊り狂っていました。そうするとまた近所界隈が、それを面白がってワイワイと集まって来ました。ついには道庵先生の庭から屋敷の前まで、露店が出て物日縁日《ものびえんにち》のような景気になりました。
 鰡八大尽の妾宅の喧《やかま》しいことと言ったら、それがため夜の目も寝られないのであります。大尽から内命を下された出入りの者は、いかにしてこの暴慢なる道庵を退治すべきかに肝胆《かんたん》を砕きました。その結果どうしても、右の馬鹿囃子に対抗するような景気をつけて、道庵の人気を圧倒しなければならないと、その方法をいろいろと研究中であります。
 そのあいだ道庵は、いよいよ図に乗って、これ見よがしに踊り狂い、踊りながら、
「スッテケテンツク、ボラ八さん」
なんぞと妙な節をつけて、出鱈目《でたらめ》の唄をうたいました。それが子供たちの間に流行《はや》って、
「スッテケテンツク、ボラ八さん」
 何も知らない子供たちは、道庵の真似をして、大きな声で町の中を唄って歩くようになりました。
 大尽の一味の者は、いよいよ安からぬことに思い、ついに大きな園遊会を開いて、道庵を圧倒するの計画が出来上りました。
 その計画は、さすがに大きなものでありました。天下の富豪たる鰡八大尽が、費用を惜しまずにやることですから、トテモ十八文の道庵などが比較になるものではありません。
 その園遊会の余興としては、決して馬鹿囃子のようなものを選びませんでした。その頃の名流を択《え》りすぐった各種の演芸の粋《すい》を抜いて番組をこしらえました。また主人や出入りの者もおのおの腕に撚《よ》りをかけて、その隠し芸を発揮しようということでありました。その上に、その頃朝鮮から来ていた名代《なだい》の美男子の役者がありました。それに非常な高給を払って、朝鮮芝居を一幕さし加えるということなどは、作者がかなり脳髄を絞っての計画に相違ありません。
 これらの計画や選定が、すっかり定まってしまうと、それをなるたけ大袈裟《おおげさ》に世間に触れてもらわねばならぬ必要から、人に金をやって、さんざんに吹聴《ふいちょう》させ、お太鼓を叩かせたものですから、このたびの園遊会の景気は長者町界隈はおろか、江戸市中までも鳴り響きました。
「さすがに大尽の威
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