す。
 手錠三十日は、大した重い刑罰ではありませんでした。道庵はこのごろ鰡八を相手に騒いでいるけれども、大した悪人でないことはその筋でもよくわかっているのであります。悪人でないのみならず、道庵式の一種の人物であることもよくわかっているから、お役人も、またかという心持でいました。しかし訴えられてみるとそのままにもなりませんから、道庵をつかまえて来て、ウンと叱り飛ばし、手錠三十日の言渡しをして町内預けです。
 それで道庵は、手錠をはめられて自分の屋敷へ帰っては来たけれど、その時は祝い酒が利《き》き過ぎてグデングデンになって帰ると早々、手錠をはめられたままで寝込んでしまいました。眼が醒めた時分に起き直ろうとして、はじめて自分の手に錠がはめられてあったことに気がつき、最初は、
「誰がこんな悪戯《いたずら》をしやがった」
と訝《いぶか》りましたが、直ぐにそれと考えついて、
「こいつは堪《たま》らねえ」
と叫びました。しかし、それでもまだ何だかよく呑込めていないらしく、役所へ引張られたことは朧《おぼろ》げに覚えているけれども、叱り飛ばされたことなんぞはまるっきり忘れてしまっていました。男衆の国公から委細のことを聞いて、はじめてなるほどと思い、いまさら恨めしげにその手錠をながめていました。
 ここにまた、道庵先生の手錠について不利益なことが一つありました。手錠といったところで、大抵の場合においては、ソッと附届けをしてユルイ手錠をはめてもらって、家へ帰れば、自由に抜き差しのできるようになっているのが通例でありました。遊びに出たい時は、手錠を抜いておいて自由に遊びに出ることができ、お呼出しとか、お手先が尋ねて来たとかいう時に、手錠をはめて見せればよかったものを、先生は酔っていたために、ついその手続をすることがなく、役所でもまた何のいたずらか先生の手に、あたりまえの固い手錠をはめて帰したから、極めて融通の利かないものになっていました。
 そこへ五人組の者が訪ねて来て驚きました。例によってお役人にソッと頼んで、緩《ゆる》い手錠に取替えてもらうように運動をしようとすると、本人の道庵先生が頑《がん》として頭を振って、
「俺ゃ、そんなことは大嫌いだ、そんなおべっか[#「おべっか」に傍点]は、おれの性《しょう》に合わねえ、これで構わねえからほうっておいてくれ」
と主張します。そんなことを言って正
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