あります。
 すでに首へ縄を捲きつけて、その縄を松の枝から通してしまった以上は、さながらムク犬の身体は起重機にかけられたと同じことであります。若干の力で縄の一端を引張りさえすれば、ムク犬は腹を前にして、前足を宙に上げるような仕掛けにされてしまいました。
 ただ例の鎖が捲きつけてあるがために、ある程度より上へは浮かないから、折角捲きつけた首の縄も、ムク犬には更に苦痛を覚えないのであります。だから、次の仕事はどうしても、その鉄の鎖を取外すことでなければなりません。
「なかなか大した鎖だ、合鍵がお借り申してあるから、これで錠前を外すがいい、それ、細引はよく松の樹へ捲きつけておかねえと、鎖を外す拍子に、縄がゆるむと間違えが出来るだ」
 周到な用心と警戒の下に、鎖を外しにかかりました。
 この前後の間におけるムク犬の身体には、更に隙《すき》がありませんでした。四つの足は合掌枠《がっしょうわく》のように剛《つよ》く突っ張って、その眼は間断なく犬殺しどもの挙動を見廻して、その口からようやく唸《うな》りを立てはじめていました。痩せた身体がブルブルと身震いをはじめました。
 広間と縁側とで見物していた武士の連中は、固唾《かたず》を呑みはじめました。犬殺しは、日頃の技倆を手際よく見せようという心であります。武士たちは、前代にもあまり例《ためし》の少ない生きたものの皮剥ぎを、興味を以て見物しようというのであります。ほいと[#「ほいと」に傍点]非人の階級は、頼まれれば生きた人間の磔刑《はりつけ》をさえ請負《うけお》うのであるから、犬なんぞは朝飯前のものであります。また武士たちとても、同じ人間を斬捨てることを商売にしていた時代もあるのだから、たかが生きた犬の皮剥ぎを実地に御覧になるということも、そんなに良心には牴触《ていしょく》しないで、かえって残忍性の快楽をそそるくらいのものでありました。
 もし、犬の代りに生きた人間を使用することができたならば、ここに集まる武士たちのうちの幾人かは、もっと痛快味を刺戟されたかも知れません。さすがにそれはできないから、猛犬を以て甘んずるというような種類《たぐい》もあったでありましょう。
 犬の首から松の枝へかけた細引を、しかと松の大木の幹へグルグルと絡《から》げておいてから、二人の犬殺しは、ムク犬の首に二重三重に繋がれた鉄の鎖を解きにかかりました。一象の力
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