す。
お銀様がここへ来るずっと前から、たった一つ、こうしてここに置かれてあったのだということも、いかに逞《たくま》しい邪推を以て見てもそれは疑えないのであります。
お銀様は、悪女の文字から来る不快と悪感《おかん》とをこらえて、そのことは竜之助に向って一言も言いません。せっかくの椿の花を拾い上げて、わざと後向きに花立へ差して、仏壇の扉を締めてしまいました。
その晩のこと、お銀様は竜之助を慰めるために話の種の一つとして、ふと、このことを言い出す気になって、
「そこにお仏壇がありまする、その中に、妙な戒名を書いたお位牌がたった一つだけ入れてありました、何のつもりで、あんな戒名をつけたのだか、わたしにはどうしてもわかりませぬ」
「何という戒名」
「悪女大姉というのでございます」
「悪女大姉? どういう文字が書いてあります」
「悪というのは善悪の悪でございます、女というのは女という字」
「なるほど、悪女大姉、それは妙な戒名じゃ」
「ほんとにいやな戒名ではござんせぬか」
「戒名には、つとめて有難がりそうな文字をつけるのに」
「それが悪女とはどうでございます、死んだ後まで、悪女と位牌に書かれる
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