もしまた本望を遂げないで刀を捨てる時は、たとえ八百屋、小間物屋をはじめたからとて、お松はそれをいやという女でないことも思わせられてくる。
この時、兵馬は、竜之助を追い求むる心よりも、お松を思いやる心が痛切になりました。明日の晩は甲府へ入って、お松を訪ねてやろうという心が、むらむらと起りました。
慢心和尚という坊主が、よけいなことを言ったおかげで、せっかくの兵馬の若い心持をこんな方へ向けてしまったとすれば、不届きな坊主であります。けれども、その不届きな坊主の無礼な言葉をも忘れてしまったほど、兵馬はお松のことが思われてなりませんでした。
四
果して兵馬はその翌日、またも甲府へ向って忍んで行きました。
それは雲水の姿をして行きました。網代笠《あじろがさ》を深く被《かぶ》って袈裟文庫《けさぶんこ》をかけて、草鞋穿《わらじばき》で、錫杖《しゃくじょう》という打扮《いでたち》です。
机竜之助を探るのは二の次で、お松のいるところまでというのが、この時の兵馬の第一の心持であります。
甲府の市中へ入ったのは夜で、甲府へ入ると兵馬は、駒井能登守を訪ねようとはしないで、神尾
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