有難う、もうよろしい」
「夜分には、また源氏物語を読んでお聞かせしましょう」
二人ともに満足して、その読書を終りました。お銀様は書物に疲れた眼を何心なく裏庭の方へ向けると、小泉家の後ろには竹藪《たけやぶ》があって、その蔭にまだお銀様の好きな椿《つばき》の花が咲いておりました。お銀様はそれを見るとわざわざ庭へ下りて、その一輪を摘み取って来ました。重々しい赤い花に二つの葉が開いています。
「お目が見えると、この花を御覧に入れるのだけれど」
柱に凭《もた》れていた竜之助の前へ、お銀様はその花を持って来ました。
「何の花」
「椿の花」
お銀様はその花を指先に挿んで、子供が弥次郎兵衛を弄《もてあそ》ぶようにしていました。
「たあいもない」
竜之助はその花を手に取ろうともしません。お銀様は、ただ一人でその花をいじくりながら無心にながめていました。
さてお銀様は、机の上をながめたけれども、そこに、有野村の家の居間にあるような、一輪差しの花活《はないけ》も何もありません。
「お銀」
竜之助はお銀様の名を呼びました。それは己《おの》が妻の名を呼ぶような呼び方であります。
「はい」
お銀様は
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