ります。警固の役人がその提灯をみとめると、直ちに取調べに行くのでありますが、天守の上まで登る時分には、もう提灯は消えてしまって、人の気配などはさらにないのであります。それですから大方、天狗様の卵だろうということに、ほぼ多くの人の意見は一致して、それが毎晩、一定の時を定めて出て来ると、こうして町中総出の姿で、門並《かどなみ》に立って見物するのであります。
なるほど、御本丸の天守台の上で、紅い提灯がクルクルと廻っています。お松もやはり、その提灯が何者であるかということを、不思議に思わないわけにゆきません。
人中を歩いて行くうちに人の噂を聞けば、天狗様の卵だというものもあるし、近いうち大火事があるのを、稲荷様が知らせて下さるのだと言う者もあり、また勤番のお侍のうちに、いたずら者があって、長い竿へ提灯をぶらさげて、町民を驚かして面白がるのだろうと言うものもありました。
けれどもこの提灯をこうして噪いで見ているうちに、市中の到るところを盗賊が荒していたことを知ったのは、その後のことでありました。
そのうちにお松は、ムク犬を先にして駒井家の邸前まで来て考えているうちに、ムク犬にひかされて裏門から邸の中へ入ってしまいました。
ここでもまた、お城の屋根の上の提灯を問題にして、家中《かちゅう》の侍や足軽などが立って見ていました。
「うちの殿様は、天狗だとか稲荷様だとかいうことをお信じにならぬ、では何でございましょうとお尋ねすると、ただ笑っておいでなさる」
「殿様は鉄砲の名人でいらっしゃるから、殿様の狙《ねら》いで、あれを撃ち落してごらんになれば、直ぐにエタイ[#「エタイ」に傍点]が知れるでござりましょう」
こんなことを話し合っていました。
その中へ入って行ったけれども、ムク犬の附いていることと、常に奥へ出入りすることに慣れているお松のことでしたから、誰も咎《とが》めるものはありません。
僧体をした宇津木兵馬は、神尾の邸の裏に待っていたけれども、お松に会えない先に、四辺《あたり》の人が噪《さわ》ぎ出したので驚きました。それは自分を発見した人があって噪いだのではないけれども、
「それ提灯《ちょうちん》が出た」
と言う声と共に人が集まる様子だから、うかとそこにおられません。心を残して町の方へ向って行くと、そこでもここでも人が出て、
「それ提灯が出た」
だから兵馬もその人々の見ている方向を見ると、お城の天守台あたりの屋根の上に赤く一点の火があって、それがクルクルと廻るのであります。
確かに提灯であろうとは認められるけれども、その提灯ならば何者がどうして、あんなところへ上ったかということが疑問であります。巷《ちまた》の人々の噂は信ずることが出来ません。
いったん町へ出た兵馬は、どうしたものか再び駒井能登守の邸の後ろへ来てしまって気がつきました。見上げると、三階になったところの戸が開かれ、そこから火の洩《も》れてることが見えます。
あれは能登守が物見のために建てたところで、あの三階へは、能登守自身のほかは登れないことにしてあるのだから、そこで火の光のすることは、まさしく能登守がそこにいて、何事かを調べているのだということがわかります。
それ故、兵馬は懐しく思って三階の上を暫らく見上げていると、その開かれた戸から人の半身が見えました。それは一見して能登守の姿であることがわかりました。
今、能登守は、そこから面《かお》を出してお城の方をながめている。お城の方といえば無論、その天守台の櫓《やぐら》の屋根の上の疑問の提灯の火であります。その提灯の火は、さきほどはクルクルと廻っていましたけれど、今は高いところでブラブラと横に揺れています。
兵馬は三階の上なる能登守と、天守台の上なる疑問の提灯とを興味を以て見比べていました。いったい能登守という人は、妖怪変化《ようかいへんげ》を信ずることのない人であるから、あの提灯についてはいかなる解釈を下しているのだろうと、その心持を兵馬は忖度《そんたく》してみないでもありません。
窓から半身を出した能登守は、ややしばらくの間、その疑問の提灯を見定めている様子でありましたが、やがて取り直したと見えるのがまさしく一挺《いっちょう》の鉄砲であります。
「さてこそ」
あれだ、能登守の疑問の提灯に対する解釈はあれだと、兵馬は少なからぬ好奇心を加えました。
能登守は聞ゆる射撃の名人。あの銃口《つつさき》に提灯の疑問が破られて、同時に、市民の迷信が解かれるのだと、兵馬は頼もしく思って固唾《かたず》を飲みました。
鉄砲を取り直して構えた能登守の姿勢は無雑作《むぞうさ》に見えました。暫らくして轟然《ごうぜん》と一発!
兵馬は天守台の櫓《やぐら》の屋根の上から、疑問の提灯が切って落したように真一文字に直下する
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