離れたところへ大きなものが一つ現われました。
「こんちは、ずいぶんいい天気でございますねえ」
その大きなものは、米友とかなり隔たったところにいながら、こう言って米友に挨拶しました。
「いい天気だよ」
米友もまた仏頂面《ぶっちょうづら》で返事はしましたけれども、その大きな物体を、なんとなく間抜けた男だと思わないわけにはゆきません。なぜならばその大きな男は、牛みたような体格をしている上に、面《つら》つきがいかにも暢気《のんき》らしく、その上に、自分でいい天気だと言いながら、この昼日中のいい天気に、松明《たいまつ》の大きなのに火をつけて携えているのですから、かなり間抜け野郎だと米友は見て取ってしまいました。
なおその上に間抜けなことは、背中に大きな石地蔵を一つ背負《しょ》っていることで、それを背負ってウンウン唸りながら、ここまで登って来たと思われる御苦労さであります。
「こんちは」
その大きな物体は、今、背中の石地蔵を作事小屋の中へ運び入れて、台の上へ寝かしておいてから、額の汗を拭き拭きまた米友の前へ来て、二度目に、こんちは、と言いました。
「こんちは」
米友もまた妙な面《かお》をして、この男に挨拶を返しました。
「お前さんは、この峠をお通りなさるのは初めてでござんすべえ」
と間抜けた男がニコニコしながら、米友にこう言いました。
「ああ、初めてだよ」
「だからお前さん、猿におどかされなすったのだ」
「ほんに憎い畜生よ」
米友の余憤は容易に去らないのであります。
「何か猿が悪戯《いたずら》をしましたかね」
「俺《おい》らがここに置いた、胡麻《ごま》のついた握飯《むすび》を盗んで行きやがった」
「それをお前さんが調戯《からか》いなすったんでございましょう。だから猿がああして、仲間をつれて来て嚇《おどか》すんでございますよ」
「人をばかにしてやがる」
「ナーニ、猿だってそんなに悪い者じゃありましねえよ」
この男は、なにげなき体《てい》でニコニコしていることが、米友には幾分か癪にさわらないではありません。この米友をさえ怖れなかった猿どもが、この間抜けた男が来たために逃げ出したとすれば、米友の沽券《こけん》にかかわらないという限りはない。米友は自分の実力でこの猿どもを懲らすことができないで、外来の人から追っ払ってもらって、それでようやく危急を逃《のが》れたというように
前へ
次へ
全93ページ中45ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング