ってから、
「紙があったはず、それから筆と墨と」
「何かお書きなさるの」
お銀様は竜之助の請求を怪しみながらも、手近の硯箱《すずりばこ》と一帖の紙とを取寄せて机の上に載せながら、
「わたしが書いて上げましょう、用向きをおっしゃって下さい」
「ええと、その紙で帳面をこしらえてもらいたい、半紙を横に折って長く逆綴《ぎゃくとじ》にしてもらいたい」
「横に折って長く逆綴に? そうして何にするのでございます」
お銀様は、竜之助に頼まれた通りに帳面をこしらえ始めました。紙撚《こより》をよってそれを綴じてしまって机の上へ置き、
「逆綴というのは、これはお葬いやなにかの時にするものでございましょう」
「死んだ人へ供養のためにするのじゃ」
「供養のために?」
お銀様は、いよいよ竜之助の挙動と言語とを怪しまずにはおられませんでした。
「今日の日は何日《いつ》であったろう」
「二月の十四日」
「それでは、そこへ初筆《しょふで》に二月十四日の夜と書いて……」
「二月十四日の夜、と書きました」
「その次へ、甲州八幡村にてと……」
「はい、甲州八幡村にて」
「その次へ、少し頭を下げて、名の知れぬ女と書いて」
「名の知れぬ女」
「十八歳と小さく」
お銀様は、竜之助に言われる通りにこれだけのことを書きました。
「これだけでよろしいのでございますか」
「まだ……左の乳の下と」
「左の乳の下、それから?」
「それでよろしい」
「これがどうして供養になるのでございます」
竜之助はそれには答えることがなく、
「今夜、拙者が外出したことは誰にも語らぬように。この後とてもその通り」
「あなたを一人歩きさせたのは、わたしの罪でございますもの」
「寝よう」
その時に何の拍子か、行燈《あんどん》の火がフッと消えました。
八幡村を震撼《しんかん》させるような恐怖が起ったのは、その翌日の夕方のことでありました。
昨夜、水車小屋から出て行方知れずになったという村の娘が一人、水車場より程遠からぬ流れの叢《くさむら》の蔭に、見るも無惨《むざん》に殺されて漂っていたのが発見されて、全村の人は震駭《しんがい》しました。
慄え上って噂をするのを聞いていると、それは大方、恋の恨みだろうということです。
その娘は村でも指折りの愛嬌者に数えられて、新作と約束が出来るまでに、思いをかけた若い者も少なくはなかったというこ
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