らふらとして小泉の家を出でました。
お銀様は竜之助の出たことを知りませんでした。それは竜之助がお銀様の熟睡を見すまして、密《そっ》と抜け出でたからであります。
小泉の家の裏手を忍び出でた竜之助は、腰に手柄山正繁の刀を差していました。これは神尾主膳から貰ったものであります。手には竹の杖を持っていました。これも甲府以来、外へ出る時には離さなかったものであります。面《かお》は例によって頭巾《ずきん》で包んでいました。
その歩き方は、甲府において辻斬を試みた時の歩き方と同じであります。あるところはほとんど杖なしで飛ぶように見えました。あるところは物蔭に隠れて動かないのでありました。自然、甲府でしたことを、ここへ来ても繰返すもののように見えます。
けれどもここは甲府と違って、人家も疎《まば》らな田舎道《いなかみち》であります。笛吹川へ注ぐ小流れに沿って竜之助は、やや下って行ったけれど誰も人には会いません。人には逢うことなくして、水車の車のめぐる音を聞きました。竜之助がその水車の壁に身を寄せた時に、一方の戸がガタガタと音をして開きました。
「それでは新作さん、行って来ますよ」
それは若い女の声。
「ああ、気をつけておいで」
それは若い男の声。
「ずいぶん暗いこと」
若い女は外の闇へ足を踏み出しました。手拭を姉《あね》さん被《かぶ》りにして、粉物を入れた箕《み》を小脇にし、若い女の人は甲斐甲斐《かいがい》しく外へ出て、外から戸を締めようとしました。
小屋の中で臼《うす》のあたりを小箒《こぼうき》で掃いていた若い男は、その手を休めてこちらを向いて、
「狸《たぬき》に見込まれないようにしろや」
と言って笑うと、
「大丈夫だよ、わたしなんぞを見込む狸はいないから」
女もまた、小屋の中を見込んで笑いながら戸を締めました。
女はこう言い捨ててスタスタと草履《ぞうり》の音を立てながら、小流れの堤を上の方へと歩いて行きます。
この水車はある一箇の人の持物ではなくて、この八幡村一郷の物であります。一軒の家が一昼夜ずつの権利を持っている共有物でありました。その当番に当った家では、その機会においてなるべく多くの米を搗《つ》き、麦を挽《ひ》かねばなりませんでした。これがために、いつもこの水車小屋には徹夜の働き手がいます。
もし若い娘がその当番の夜に働いていたならば、それと馴染《
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