》を囲んで、定連《じょうれん》が濁酒《どぶろく》を飲んだり、芋をつついたりして、太平楽《たいへいらく》を並べている最中でありました。
前にも言う通り、折助の社会は人間並みの社会ではないのであります。人間並みの人の恥ずることがこの社会では誉《ほまれ》なのであります。これらの人間が、もし女を引きつれてこの酒場へ来ようものならば、「恋の勝利者!」と言って彼等は喝采します、どうかして心中の半分もやり出すものがあると、彼等は喜悦に堪えないで双手《もろて》を挙げて躍り狂うのでありました。「偉い! 楠公《なんこう》以上、赤穂義士以上、比翼塚《ひよくづか》を立てろ!」というようなことになるのであります。
けれどもまた、怜悧《りこう》な人は折助をうまく利用して、評判を立てさせたり隙見《すきみ》をさせたりするのでありました。それによって多少成功する者もないではありませんでしたけれども、やっぱり折助の立てた評判は折助以上に出でないことを知るようになりました。
今、駒井能登守の屋敷を覗いて、米友に叱り飛ばされた折助も、おそらくは誰かに利用されて、隙見に来たものでありましょうが、この酒場へ逃げ込むと大急ぎで熱燗《あつかん》を注文して飲みました。
ここでは前からガヤガヤと折助連中が馬鹿話をしておりましたから、新たに逃げ込んだ三人の話し声も、それに紛《まぎ》れて何を話したのだかわかりませんでしたけれども、彼等は惣菜《そうざい》で熱燗をひっかけると、長くはこの場に留《とど》まらないで、また三人打連れて飛び出してしまいました。それで彼等は雪の中を威勢よく駆け出して、二丁目を真直ぐに飛んで、やがて役割の市五郎の屋敷へ飛び込んでしまいました。
それはそうとして、米友は彼等を叱り飛ばして、また鉄砲を担いで自分の部屋としてあてがわれたところへ来て、鉄砲を卸して大事に立てかけて、それから蓑《みの》を脱いで外へ向けてよく振いました。蓑に積っていた雪をパッパと振って壁へかけ、それから、腰を卸して雑巾《ぞうきん》で足を拭きはじめました。
足を拭いている時も、米友の面《かお》は曇っていました。そこへ不意に鼻を鳴らし、尾を振って現われたのはムク犬であります。
「ムク」
米友は足を拭きかけた雑巾の手を休めて、ムク犬をながめました。
「雪が降ると手前《てめえ》も機嫌がいいな」
ムクは米友の前に膝を折って両手を突くようにして、米友の面をながめました。
「今、飯を食わせてやるから待っていろ」
米友は足を拭き終って、上へあがりました。
「ムクや、手前は良い犬だ、どこを尋ねても手前のような良い犬はねえけれど、やっぱり犬は犬だ、外を守ることはできても、内を守ることができねえんだな」
と言いながらムクの面を見ていた時に、ふと気がつけば、その首に糸が巻いてあって、糸の下には結《むす》び状《ぶみ》が附けてあるのを認めました。
「おや」
と米友はその結《むす》び状《ぶみ》に眼をつけました。してみればムクは食事の催促にここへ来たのではなく、この結び状を届けるためにここへ来たものとしか思われません。
「誰だろう、誰がこんなことをしたんだろうな」
と言って米友は不審の眉を寄せながら、ムクの首からその糸を外して結び状を取り上げました。
ともかくも、ムクを捉まえてこんな手紙のやりとりをしようという者は、米友の考えではお君のほかには思い当らないのであります。けれどもそのお君ならばなにも、わざわざこんなことをして自分のところへ手紙をよこさねばならぬ必要はないはずであります。お君のほかの人で、こんな使をこの犬に頼む者があろうとは、米友には思い当らないし、ムク犬もまたほかの人に、こんな用を頼まれるような犬ではないはずであります。
米友は、いよいよ不審の眉根《まゆね》を寄せながら、ついにその結び文を解いて見ました。読んでみると文句が極めて簡単なものであった上に、しかも余の誰人に来たのでもない、まさに自分に宛てて来たもので、
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『米友さん裏の潜《くぐ》り戸《ど》をあけて下さい』
[#ここで字下げ終わり]
と書いてあるのでありました。
「わからねえ」
米友は、その文面を見ながら、いよいよ困惑の色を面《かお》に現わしました。それは確かに女の手であります。女の手で見事に認《したた》められてあるのであります。
「いよいよ、わからねえ」
米友の知っている唯一のお君は手紙の書けない女であります。このごろ、内密《ないしょ》で文字の稽古はしているらしいが、それにしても、こんな見事に書けるはずはないのであります。そのお君を別にして……まさか米友を見初《みそ》めて附文《つけぶみ》をしようという女があろうとは思われません。
「誰かの悪戯《いたずら》だ」
と疑ってみても、このムク犬が、こんな悪戯のなかだちにたつようなムク犬でないことによって、打消されてしまうのであります。
「ムク、ともかくもまあ案内してみろやい」
米友は下駄を突っかけました。ムク犬はその先に立ちました。
これより前の晩に、ムク犬はこれと同じようにして、米友とお君とを引合せました。今はまた別の何者かを、米友に引合せようとするらしいのであります。
けれども、その潜《くぐ》り戸《ど》をあけるためには、ぜひとも一度、お君の部屋まで行かねばならないのでありました。お君の部屋にその鍵があるのですから。
米友はこのごろ、お君の部屋へ行くことをいやがります。その前を通ることさえ忌々《いまいま》しがることがあります。けれども今は仕方がないから、番傘を拡げて庭へ廻って、そっとお君の部屋へ入りました。そこにはお君はいませんでした。留守の一間は、化粧の道具がいっぱいに取散らされてありました。
米友の面にはみるみる不快の色が満ち渡って、壁にかけてあった鍵をひったくるように手に取りました。
紅や白粉や軟らかい着物を脱ぎ捨てられたのを見た米友は、その場を見ると物凄い眼つきで湯殿《ゆどの》の方を睨《にら》みながら、また番傘を拡げました。ムク犬は常に変った様子もなく、米友を塀の潜《くぐ》り戸《ど》の方へと導くのであります。
米友が裏の潜り戸をあけて見たけれど、そこには誰も立っていませんでした。
米友は往来を見廻したけれども、雪が降っているばかりで、誰もいないし、通る人もほとんど稀れであります。
こいつは、やっぱり欺《かつ》がれたかなと思って、首を引込めると、ムクが勢いよく外へ飛び出しました。ムクがこっちから飛び出すと一緒に、向うの木蔭から蛇の目の傘が一つ出て来ました。雪は掃いてあるところもあり、掃いてないところもあるから歩きづらい中を、蛇の目の傘を傾《かし》げて、足許《あしもと》危なげにこっちへ歩んで来るのは女でありました。面は見えないけれども、その着物と足許で、まだ若い女の人であるということが米友にもよくわかります。
その人の傍へ飛んで行ったムクは、ちょうどそれを迎えに行ったようなものです。
誰だろうと思って米友は、その傘の中を早く見たいものだと思いました。
「米友さん」
と言って、すぐ眼の前へ来てから、傘を取るのと言葉をかけるのと一緒であった。その人の面《おもて》を見て、
「やあ、お前はお嬢さんだ」
と米友が言いました。
お嬢さん、と米友が言うのは、それはお松のことでありました。お松とその伯母さんという人を米友は、江戸から笹子峠の下まで送って来た縁があります。
「米友さん、久しぶりでしたわね」
とお松が言いました。
「ほんとに久しぶりだな。お前さん、どうして俺《おい》らがここにいることがわかった」
「さっき、ちょっと見かけたから、それで」
「では、ムクの首へ手紙をつけたのもお前さんだね」
「そうよ」
「そんなことをしなくても、表から尋ねて下さればいいに」
「それがそうゆかないわけがあるから、それであんなことをしたの。米友さん、お前に内密《ないしょ》で頼みたいことがあるのだけれど、少しの間、外へ出て貰えないの。そうでなければ、わたしを中へ入れて話を聞いて貰いたいのだけれど」
「うむ、そうさなあ」
と言って米友は、少しく考えていましたが、
「俺《おい》らは、ちょっと外へ出るわけにはいかねえんだ」
「では米友さん、後生《ごしょう》だけれど、こちらのお屋敷の誰にも知れないようにして、お前さんの部屋か何かへ、わたしを通して下さいな、そこでぜひお前さんに話をしたいことがあるんだから」
「そりゃ構わねえ、俺らの部屋でよければ、お寄んなさるがいい。ううん、誰にも見られやしねえ。見られたところで、なにも痛いことも痒《かゆ》いこともあるめえじゃねえか」
「おかしな米友さんだこと、それは痛くも痒くもないけれど、少し都合があって誰にも見られたくないのだから、そのつもりで」
「いいとも、早く中へ入っちまいな、ここを閉めるから」
お松はそのまま潜《くぐ》り戸《ど》をくぐって庭の中へ入りました。米友はそのあとを閉して錠を下ろしてしまいます。
「米友さん、わたしはどうしようかと思ったけれど、お前さんが、蓑を着て鉄砲を担いで裏門を入って行く姿を見たものだから、こんな仕合せなことはないと思って、どうかしてお前さんが、もう一ぺん出て来るのを待っていようと、さっきからこの通りを二度も三度も歩いているうちに、この犬がお屋敷から出て来たものだから、ほんとにいい塩梅《あんばい》でした」
米友は、お松を己《おの》れの部屋へ案内して、炉の火を焚きました。
「米友さん」
改まってお松は、米友の名を呼びます。
「何だ」
米友は眼を円《つぶら》にしました。
「わたしが、お前さんに聞きたいことと、それから頼みたいことというのは、あの、お前さん、ここのお屋敷にお客様がおありでしょうね」
「お客様?」
「え、え」
「そりゃ、これだけのお屋敷だからお客様もあるだろうさ」
「いいえ、そのお客様というのはね、人に知れては悪いお客様なのよ」
「はははは」
米友は苦笑《にがわら》いして、
「人に知れて悪いお客様なら、俺《おい》らにも知れようはずがなし、お嬢さん、お前にだって知れるはずがなかろうじゃねえか」
「それでも、わたしにはよく知れているのよ」
「知れてるなら、俺らに聞かなくってもいいじゃねえか」
「米友さん、お前さんは相変らず理窟を言うからいけません」
「だって」
「そのお客様はお前……牢から出た人なのよ」
お松が四辺《あたり》に気を置いて小声で言うと、
「エ、エ?」
米友が、やや狼狽《うろた》えました。
「そのお客様が……」
「知らねえ、俺《おい》らは知らねえ」
米友は首を左右に振りました。
「知らないたってお前、わたしにはよくわかっているのだから、隠しても仕方がないのよ、牢から出たお客様が三人ほど、たしかにこのお屋敷に隠れているはず」
「エ、エ?」
米友はお松の面《かお》をじっと見ました。
「米友さん、これはわたしのほかには誰も知っている人はないのだから、心配しないように。そうしてその三人の中で、いちばん若い方に、これを差上げていただきたいの」
「何だ、それは」
「お薬」
「薬がどうしたんだ」
「どうか、これをお前さんの手から、その若いお方に差上げて下さい、頼みます」
「う――む」
と言った米友は、腕を拱《こまぬ》いて考え込んでしまいました。
「それからね、米友さん、いつでもいいからそのお方に、わたしを一度会わせて下さいな、そっと、誰にも知れないように、わたしのところへ言伝《ことづて》をして下さいな」
「う――む」
「後生《ごしょう》だから頼みますよ、その代り、わたしはまたお前さんの頼みなら何でもして上げますから」
「う――む」
「米友さん、お前さんは、うんうんと言っているけれど、承知してくれたのかえ、承知してくれないのかえ」
「う――む」
「後生だから」
「お嬢さん、俺らはほんとに知らねえんだ、このお屋敷に、どんなお客様が来ているか知らねえのだけれど……お前さんにそう言われてみると、ちっとばかり心当りがねえでもねえんだよ。よし、頼まれてやろう」
「有難う、拝みま
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