まだ眼を開かないけれど、炬燵《こたつ》の中から半身を開いて、傍《かたえ》に置いた海老鞘《えびざや》の刀を膝の上まで引寄せているのでありました。
その構えは、動かば斬らんという構えでありました。その面《かお》の色は、斬って血を見ようとする色でありました。
「ああ、ああ、あなた様も、やっぱり悪い人、神尾主膳の同類でござんしたか。ああ、わたくしはどうしたらようございましょう」
主膳に脅《おどか》された時は、少なくとも抵抗するの気力がありました。またその人に追われた時も逃げる隙がありました。ひとりこの異様なる人の前にあっては、身の毛が竪立《よだ》って動こうとしても動けないで、張り合おうとしても張り合えないで、戦慄するのみです。
この時、門外が噪《さわ》がしく、多くの人がこの古屋敷へ来たらしくあります。
それは、乗物を持って神尾主膳を本邸から迎えに来たものでありました。酔い伏していた主膳は、その迎えを受けるや愴惶《そうこう》として、その乗物に乗って本邸へ帰ってしまいました。それでこの古屋敷は、主人を失って全く静寂に帰してしまいました。
机竜之助は、また炬燵櫓《こたつやぐら》の中へ両の手を差込んで、首をグッタリと蒲団《ふとん》の上へ投げ出して、何事もなく転寝《うたたね》の形でありました。お銀様はその前に伏して面《かお》を埋めて、忍び音に泣いているのでありました。外の雪は、まだまだ歇《や》むべき模様もなく、時々吹雪が裏の板戸を撫《な》でて通り過ぎると、ポタポタと雪の塊《かたまり》が植込の梢《こずえ》を辷《すべ》って庭へ落ちる音が聞えます。
「幸内というのは、ありゃ、お前様の兄弟か」
「いいえ、雇人でござりまする」
竜之助は転寝をしながら静かに尋ねると、お銀様は忍び音に泣き伏しながら辛《かろ》うじて答えました。
「雇人……」
竜之助はこう言って、しばらく言葉を休んでいました。
「幸内がかわいそうでございます、幸内がかわいそうでございます」
お銀様は、また泣きました。
「いったい、神尾はあれをどうしようというのだ」
「神尾様は幸内を殺してしまいました、あの人が企《たくら》んで幸内を殺した上に、わたくしを欺《だま》して、わたくしの家を乗取ろうという悪い企みだそうでございます」
「神尾のやりそうなことだ」
と言って竜之助は、敢《あえ》てその悪い企みを聞いて驚くのでもありませんでした。また神尾のその悪い計画に同意しているものとも思われませんでした。それですから、お銀様にどうもこの人がわからなくなってしまいました。
「あなた様は神尾様のお友達でございますか、御親類のお方でございますか、神尾様のような悪いお方ではございますまい、幸内を苛《いじ》めたように、わたくしを苛めるような、そんな悪いお方ではございますまい、そんなお方とは思われませぬ、あなた様は、もっとお情け深いお方でございましょう、どうか、わたくしをお逃がし下さいまし」
「ははは、わしは神尾の友達でもないし、もとより身寄《みより》でも親類でもない、お前方と同じように、神尾主膳のために囚《とら》えられて、この古屋敷の番人をしているのじゃ」
「エエ! それではあなた様もやっぱり神尾のために」
「よんどころなくこうしている」
「お宅はどちらでございます」
「ちと遠い」
「御遠方でございますか」
「武蔵の国」
「そんならば、あの、こちらの大菩薩峠を越ゆれば、そこが武蔵の国でございます」
「ああ、そうだ」
竜之助は荒っぽく返事をしました。お銀様は黙ってしまいました。
「なるほど、大菩薩峠を一つ越せば武州へ入るのじゃわい、道のりにしてはいくらもないけれど、おれには帰れぬ、帰ってくれと言う者もないけれど。ああ、子供が一人いる、親の無い子供が泣いている」
竜之助は炬燵《こたつ》の上から頭を持ち上げました。子供が一人いる、親の無い子が泣いている、これはまた何という取っても附かぬ述懐であろう。この人にしてこんな言《こと》……その面《かお》を見ると、冷やかな蒼白い色に言うばかりなき苦悶の影がありありと現われましたけれど、それは電光のように掠《かす》めて消えてしまいました。
消えないのはお銀様の眼の前に、前の晩、穴切明神のあたりで泣いていた男の子、親は何者かのために斬られて非業《ひごう》の最期《さいご》。ひとり泣いていた、あの子はどうなった――ということであります。
お銀様は机竜之助の傍に引きつけられていました。
日が暮れるまでそこで泣いていました。日が暮れるとその屋敷の小使が食事を運んで、いつもの通りその次の間まで持って来て置きました。
竜之助は夕飯を食べましたけれども、お銀様は食べませんでした。
夕飯を食べてしまった後の竜之助は、障子をあけてカラカラと格子戸を立てました。外の雨戸のほかに、この座敷には狐格子《きつねごうし》の丈夫な障子がまた一枚あります。その格子戸を立て切ると竜之助は、二箇所ほどピンと錠をおろしてしまいました。
なんのことはない、それは座敷牢と同じことです。
そこで竜之助は、また炬燵へ入ってしまいました。
お銀様は泣いておりました。こうして夜は次第に更《ふ》けてゆくばかりです。
夜中にお銀様は物におびやかされて、
「あれ、幸内が」
と言って飛び上りました。
やはり転寝《うたたね》の形であった竜之助はその声で覚めると、その見えない眼にパッと鬼火が燃えました。
「幸内が……」
お銀様は再び竜之助に、すがりつきました。お銀様は何か幻《まぼろし》を見ました。幸内の形をした幻に驚かされました。
机竜之助もまた何者をか見ました。何者かに襲われました。お銀様を抱えて隠そうとしました。
竜之助を襲い来《きた》ったものは神尾主膳ではありません。宇津木兵馬でもありません。
前に幸内を入れて置いた長持の中から、茶碗ほどの大きさな綺麗な二ツの蝶が出ました。何も見えないはずの竜之助の眼に、その蝶だけはハッキリと見えました。
蝶は雌蝶と雄蝶との二つでありました。しかもその雄蝶は黒く雌蝶は青いのまで、竜之助の眼には判然《はっきり》として現われました。
お銀様を片手に抱えた竜之助は、その蝶の行方《ゆくえ》を凝《じっ》と見ていました。雄蝶と雌蝶とは上になり下になって長持の中から舞い出でました。やや上ってまた下りました。その二つは戯《たわむ》れているのではなく、食い合っているのでありました。
非常に恐ろしい形相《ぎょうそう》をして雌蝶と雄蝶が噛《か》み合いながら室内を、上になり下になって狂い廻るのでありました。
「ああ、幸内がかわいそう……」
とお銀様が慄《ふる》え上るその頭髪《かみ》の上で、二つの蝶が食い合っていました。竜之助には、いよいよ判然《はっきり》とその蝶が透通《すきとお》るように見えるのであります。蝶の噛み合う歯の音まで歴々《ありあり》と聞えるのであります。
「ああ、幸内がここへ来た」
お銀様は、雌蝶とも雄蝶とも言わない。竜之助は幸内の姿を見ているのではありません。
この二つの蝶は夜もすがら、この座敷牢の中を狂って狂い廻りました。竜之助はこの蝶のために一夜を眠ることができませんでした。お銀様はこの蝶ならぬ幸内の幻《まぼろし》のために一夜を眠ることができませんでした。
夜が明けた時にお銀様は、そう言いました。
「ああ、あなたはお眼が見えない、お眼が見えないから、わたしは嬉しい」
竜之助とお銀様との縁は悪縁であるか、善縁であるか、ただし悪魔の戯れであるかは、わかりません。
けれども、甲府のあたりの町の人にはこれが幸いでありました。その当座、机竜之助は辻斬に出ることをやめました。甲府の人は一時の物騒な夜中の警戒から解放されることになりました。
お銀様は、竜之助と共に暫らくこの座敷牢の中に暮らすことを満足しました。竜之助は、このお銀様によって甲府の土地を立退くの約束を与えられました。
六
神尾主膳が躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷から、あわてて帰った時分に、駒井能登守はまた、こっそりとその屋敷へ戻って来ました。
出て行った時には都合四人であったのが、帰った時は二人きりです。その二人とは、当の能登守と、それから跟《つ》いて行った米友とだけです。
「米友」
能登守が米友を顧みて呼ぶと、
「何だ」
米友は上眼使いに能登守の面《かお》を見上げて、無愛想な返事です。
「大儀であったな」
「ナーニ」
米友は眼を外《そ》らして横を向いて、能登守の労《ねぎら》う言葉を好意を以て受取ろうとしません。屋敷に着いた時も、表から入らずに裏から入りました。
出て行った時でさえ、家来の者も気がつかなかったくらいだから、帰った時には、なお気がつく者がありませんでした。
主人を送り込んだ米友は、その鉄砲を担いだままで、ジロリと主人の入って行った後を見送っていました。
「お帰りあそばせ」
と言って迎えたのは女の声であります。女の声、しかもお君の声であります。その声を聞くと米友は眼をクルクルと光らせて、大戸の中を覗《のぞ》き込むようにしました。けれども主人能登守の姿も見えないし、お君の姿も見えません。二人の姿は見えないけれど、その声はよく聞えます。
「よく降る雪だ」
「この大雪に、どちらまでおいであそばしました」
「竜王の鼻へ雪見に行って来たのじゃ」
「ほんとに殿様はお好奇《ものずき》でおいであそばす」
というお君の声は、晴れやかな声でありました。
「ははは、これも病だから仕方がない」
能登守も大へんに御機嫌がよろしい。
「また御家来衆に叱られましょう、お好奇《ものずき》も大概にあそばさぬと」
「それ故、こっそりとこの裏口から帰って来た。しかし誰に叱られても、この大雪ではじっとしておられぬわい……留守中、あの病人にも変ることはなかったか」
「よくお休みでございます、気分もおよろしいようで」
「それは何より。さあ、これがお前への土産《みやげ》じゃ」
「まあ、これをお打ちあそばしたのでございますか」
「そうじゃ、荒川沿いの堤《どて》の蔭で」
「かわいそうに」
「これはしたり、そなた殺生《せっしょう》は嫌いか」
「殺生は嫌いでございますけれど、殿様のお土産ならば大好きでございます」
「はは、たあいないものじゃ」
「あの、お風呂がよく沸《わ》いておりまするが、お召しになりましては」
「それは有難い、ではこのまま風呂場へ」
「御案内を致しまする」
米友は、大戸の入口から洩れて来るこれらの会話《はなし》をよく聞いていました。大戸の中をやや離れて覗《のぞ》き込むようにしていたが、その額に畳んだ小皺《こじわ》のあたりに雲がかかって、その眼つきさえ米友としてはやや嶮《けわ》しいくらいです。
そこで話がたえたけれども、この会話の間にも、お君の口からも能登守の口からも、米友という名前は一言も呼ばれませんでした。遺憾ながら「友さんも帰りましたか」という言葉が、お君の口から出ないでしまいました。それで二人は風呂場へ行ってしまったようでした。米友は大戸の入口から、まだ中を睨《にら》んで立っています。
それから米友は、軒下を歩いて自分の部屋へ帰ろうとする時に、
「誰だい、そこの節穴からこの屋敷の中を覗いているのは誰だい」
と言って、また立ち止まって塀を睨みました。
「また折助のやつらだろう、誰に断わってそこからこっちを覗くんだ、やい、鉄砲を打放《ぶっぱな》してくれるぞ」
おどかすつもりであろうけれども、米友は担《にな》っていた鉄砲を肩から卸《おろ》しました。
米友が推察の通り、この塀の外から中を隙見《すきみ》していたのは折助でありました。折助が三人ばかり先刻から節穴を覗いていたのを、米友に見つけられて彼等は丸くなって雪の中を逃げました。
折助は雪の中を、こけつまろびつ逃げて、とうとう八日市の酒場まで逃げて来ました。それは縄暖簾《なわのれん》の大きいので、彼等の倶楽部《くらぶ》であります。
彼等三人がこの八日市の酒場へ逃げ込むと、そこには土間の大囲炉裏《おおいろり
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